
動物たちを大都市の病院へ転院させることなく自院ですべての治療を完結させるという目標のもと、動物医療の地域格差に挑んできた獣医師・川西航太郎氏。動物医療の世界には人間のような紹介システムが確立されておらず、動物病院や高度医療施設は大都市に集中。何とか二次診療を行える病院が見つかったとしても、すでに具合の悪いペットをそこから何時間もかけて移動するのは現実的ではなく、治療を諦めざるを得ない飼い主が絶えません。川西氏が獣医療格差の実情を解説します。
地方の獣医師は「孤立無援」の状況
専門医は大都市でしか開設されない傾向にあり、一方、地方では総合診療医とされる医院が中心になっています。専門医がいない地方では総合診療医、つまり、何でも屋をするしかありません。動物医療機関同士の連携が十分ではない現状で、地方の総合診療医は大きな負担を抱えながら地域の動物医療に貢献し、多くの場合、いわば孤立無援の状況におかれてしまう深刻な事態が起きています。
この問題については、興味深いデータがあります。
1軒の動物病院に何人の小動物獣医師がいるかを調査した結果です。獣医師が2人という施設では夫婦で獣医師というところも少なくありません。そもそもの母数も異なりますが、割合を見ると、獣医師1人の動物病院は東京で約58%、神奈川で約57%であるのに対し、茨城は約64%です。獣医師1人または2人の動物病院は東京で約79%、神奈川で約78%、茨城で約86%となっています。

このことから、ただでさえ少ない地方の獣医師は各施設でさらに孤立した状況で診療にあたっている現状が浮かび上がります。しかもそのほとんどが総合診療医ですから、どんな病気やケガの動物がやってきても自分1人で診察をし、自分の病院では検査や治療ができない、あるいは自分の手に余る状態の動物がやってきても医療連携がない状態では自分1人でなんとかするしかないのです。その症例に対しどんな治療で臨むのか、場合にはよってはどういう状態になったら治療を断念するのか、自分だけで判断しなければなりません。
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複数の獣医師が在籍していれば、治療方針についてどう思うかおのおのの意見を聞くこともできますが、最少人数で対応している場合はそうもいかず、常に自問自答しているうちにまた次の患者を診察しなければなりません。考えることが絶えず積み重なっていくことで、責任感がある獣医師ほど孤独を抱え緊張は強くなるばかりです。
1980~1990年代のいわゆるペットブームの時期に獣医師に憧れをもち、この道を志した人には、当時流行していたテレビ番組や大人気マンガの影響を受け、大好きな動物を救いたいという純粋な動機をもつ人が少なくありません。それだけに、夢がかなって獣医師となったものの、直面する現実の困難さに苦しんで場合によっては必要以上に自分を責めてしまい、しかも救いの手を差し伸べる人が近くにいないという苦境に陥りかねません。
これについては、カナダのゲルフ大学が発表した「カナダの獣医師におけるメンタルヘルス有病率の結果」というアンケート調査結果が無視できないデータを示しています。カナダ国内で獣医師資格をもつ人のうち、10%にあたる約1400名を対象にオンラインアンケートを実施しました。その結果、いわゆる燃え尽き症候群や共感疲労、不安、うつ病を評価する値が一般人による母集団に比べて有意に高く、精神的な回復力を表す値が有意に低下していたのです。さらに25%以上が1年以内に、自分の意思と関係なく「死にたい」という発想が脳内に繰り返し生まれる特定の心理状態を経験したことがあるという結果も得られました。
1人で動物病院を経営し、「何でも屋」としてあらゆる動物たちに接する獣医師たちの孤立した状況は、身体的な負担や技術的な問題だけではなく、メンタルヘルスに深刻な影響をもたらしていることが懸念されます。
“検査や治療ができないのは仕方ない”と諦めている現実
獣医学部に在学していた私は、周囲の仲間と同様に東京の大学周辺の動物病院で就職することを漠然と考えていました。しかし、家庭の事情から故郷である茨城県水戸市に戻ることになりました。とはいえ、水戸も東京と同じ関東地域です。必要があればいつでも都内に出られる距離ですから、そのときはよもや、水戸にいながら実は大都市から孤立しているとは夢にも思いませんでした。
2005年に大学を卒業し地元に戻った私はごく一般的な動物病院に就職しました。臨床獣医師としての勉強は、実際の治療を体験してから経験値を積んで学んでいくと思っていたので、これからどのように動物たちと向き合い、病気を治すことができるのかと期待に胸をふくらませていました。私自身、大学在学中には整形外科領域の治療に興味があったので、その領域を中心に少しずつ経験を広げていきたいと考えていたのです。例えば骨折した犬が来院した場合、どのようにして治療するのかと先輩獣医師の対応を目の前で見たり、獣医学書を読んだりしながら知識を深めていくつもりでした。