
「家康ほど、城を転々とした武将はいない」と、歴史家の河合敦氏は言う。小国・三河から出発し、天下人となった家康の人生を、拠点とした城の秘密からたどってみたい。
家康が生まれたのは、岡崎城(現在:愛知県岡崎市)。
「家康はこの城で父・松平広忠と母・於大の方(おだいのかた)との間に誕生しますが於大の方は家康が3歳の時に離縁され岡崎を出ていきます。その後、家康は6歳の時に人質として尾張に2年、今川家の駿府で19歳まで過ごします。桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が討たれて死んだあと、ようやく岡崎城に戻り、西三河から東三河へと三河の統一戦を進めていきます」
河合氏は続けて、
「三河を統一したあと、家康は甲斐の武田信玄と手を握って、今川氏真の領地を東西から攻め滅ぼし、ついに遠江を奪い取ります。そして遠江の支配を固めるために、現在の静岡県浜松市の引間城(のちに浜松城)に移ってきます。当初は城之崎城(静岡県磐田市)を遠江の拠点にしようとしましたが、背後に天竜川が流れていて、信玄が攻めてきたら文字通り〝背水の陣〟になってしまう。そこで、対岸の引間城を大規模改修、中心部を川の反対側に移して浜松城としたのです。家康は、1585(天正13)年までの約15年間、この浜松城を拠点としました」
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浜松城では、家康にとって忘れることのできない唯一の負け戦「三方ヶ原の戦い」があった。武田軍がやってくるという大ピンチに、家康は無理を承知で浜松城から出撃、結局ボロ負けして命からがら浜松城に逃げ帰ることに。面白いのはこの時期に家康が、武田の築城技術を取り入れていったと思われることだ。
「巨大な横堀を造ったり、丸馬出という半円形の虎口前の曲輪の作り方など武田の技術と思われるものです。当時、西日本の城と東海地方の城はその造りが全然違っていた。西国の技術が伝わっていなかったのか、家康の浜松城には当初、石垣や瓦葺きの屋根などは使われていませんでした」(河合氏)
石垣を積みその上に城郭、さらに天守を造るようになるのは、信長が安土城を造って以降。信長をまね、秀吉が発展させ大坂城など壮麗な城郭を造っていくようになる。城は戦いのための要塞から城主の権威を示すものに変わっていった。
この浜松城は、家康が出世し、家康のあとに浜松城に入った城主たちも若年寄や老中などの要職に取り立てられたので、後に「出世城」として有名になる。「天保の改革」を行った老中・水野忠邦もこの地から出世を果たしたのだ。
さて、家康は争ってきた武田が滅ぶと、信長から駿河をもらって三河、遠江、駿河という3つの国の大名になる。さらに武田が滅んだ3カ月後には同盟を結んでいた信長が本能寺の変で死亡。信長が制圧した武田領の甲斐と信濃に攻め入り、家康は5つの国の大大名にのし上がるのである。