しばらく待ってみたが応答はない。もう一度ボタンを押すと、ようやく、「はい」
住人の第一声が、スピーカーから聞こえてきた。
ここまでは普通だったから、「宅配便ですけどォ」と姿の見えない相手に呼び掛けると、いつものような「あ、はーい」という返事ではなく、こんなのが来た。
「宅配便? あなたが?」
もしかしたら面倒くさい相手なのか? 不安がよぎる。声は若い女のもので、穏やかでありながら、どこか挑発的な響きもあった。宅配アルバイトの身とはいえ、ぼくには緑色の専用ジャンパーも貸与されているし、帽子も被っている。胸ポケットには、『配達ネコ』のトレードマーク。どう見ても『ムサシ運輸』の配達人だ。それなのに、「警察だ、出てきなさい」くらい効果がある「宅配便ですけどォ」に疑問を持たれては、この商売やってられない。
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仕事をスムーズに進めるに当たって最も重要なのが、宅配便という職業に対する信頼であって、それが通用しない相手というのは初めてだ。とにかく出てきてもらわないことには、何も始まらない。
届け物のダンボール箱をカメラの前に掲げ、「ほら、あなた宛に荷物が届いてますよォ」
にこやかにアピールする。
「ニセモノじゃないの?」
コイツ、何者なのか? 宅配便一つ受け取るために、普通そこまでするか?
配達票に書いてある、通販の会社名と、受取人住所、アパート名・メゾン灯(あかり)二〇三号、受取人氏名『轟(とどろき)若芽(わかめ)』をぼくは指し示し、「おたく、轟さんですよね?」
「まあ、そうかも」
「じゃあ、出てきてください」
「うーん、でも変なことされたら嫌だからなあ」
誰がオメエなんかに手を出すかよ! 見えない相手をブスと決め付け、条件反射的に言い返そうとして、ぐっと堪える。どうやらこの女は、ぼくとバトルしたいようだ。挑発に応じ、ぼくもまた、見たこともない馬鹿な女と闘うことを決意しなければならないのだろうか? ドアを蹴破り、泣き喚く女を部屋から引きずり出し、無理矢理ペンを持たせてサインさせるというバイオレンスアクションシーンが脳裏に浮かぶ。
まさか、宅配ごときでそんな闘争、暑苦しい。
「じゃあ、荷物、ドアの前に置いときますから。置き配でいいですよね?」
せめてもの意思表示として、冷たい声で言い放ってやった。「サイン代筆しときますから」
すると、こんなささやかな抵抗にお構いなしの挑発的な女の声。
「それって違反行為だと思う」
さすがにむっと来た。思わずあたりを見渡せば、無人の通路。怒鳴っても他人に聞かれることはなさそうだが、お客に怒鳴っていいわけがない。怒りを飲み込むと、自分の置かれている状況に茫然自失となる。