その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。
例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。
まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。
ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。
そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。
▶前回:友人の結婚式で受付を頼まれて、招待客リストに驚愕!そこには、ある人物が
Vol.2 A.M.11:45 披露宴、新郎新婦入場
新婦友人・高山千紗子(チー子・主婦・35歳)
ピアスの穴は、開いていない。
小中高時代を過ごした東洋英和が身だしなみに厳しい校風だったせいもあってか、35歳になる今まで、ずるずると開けられないまま来てしまった。
でも今では、開いていなくても良かったと思う。
母がジュエリーブランドの二代目経営者ということもあり、受け継がれたアクセサリーを多く持っているけれど、その多くはピアスではなくイヤリングなのだ。
今日も身につけているのは、母から受け継いだパールのイヤリング。これぐらい大ぶりなイヤリングになると、少し付けているだけで耳が痛くなってくる。
つい先ほど挙式が終わり、しばらくお手洗いに隠れて強くつまんだ耳たぶ。
すっかり赤くなった耳たぶに付け直したイヤリングは、すでにじんじんと鈍い痛みで、その重量を訴えかけていた。
でも…今日は。今日だけは。
その痛みが、重みが、有り難い。
― ぎゅっとつまんでいて。指先の代わりに。
心の中で、母のイヤリングに語りかけていた、その時。
フラワーガールの衣装で隣に座っている娘のひなこが、ワクワクと弾む声で話しかけてきた。
「あっ、ママ!お嫁さんが、マサミちゃんが入ってくるよ!」
私は、人差し指を口元に添えて「シー」とジェスチャーで伝えると、照明の落とされた会場の中、一点だけ煌々とスポットライトで照らされた扉を見つめる。
流れるような指使いのバイオリン。華々しく響き渡るピアノ。
そして──入場してくる、真っ白なドレスに身を包んだ親友のマサミと、新郎の向一郎くん。
割れんばかりの拍手の中で私は、誰にも聞こえないように呟いた。
「向一郎くんの隣にいるのが、マサミじゃなくて…私だったら良かったのに…」
ポロッとこぼれた心の声を打ち消すため、私は慌てて笑顔を浮かべ、ふたりに向かって惜しみなく拍手を送る。
席のすぐ横を、腕を組んだマサミと向一郎くんがゆっくりと通り抜けていく。
『チー子!ひなちゃんのフラワーガール、ありがとうね!』
私に向かって口パクでそう伝えるマサミの姿は、普段の100倍、いや、1,000倍は綺麗だ。
そして、美しいマサミの隣で会釈を繰り返す向一郎くんも、清潔感があって精悍で…“あの頃”から、全く変わっていないように見えた。
― あぁ。悔しいけど、やっぱり2人はお似合いだ。
私は延々と拍手を続けながらも、改めてそう痛感する。
鈍い痛みと、重い心。この気持ちは──そう。敗北感だ。
そして、これと同じ敗北感を味わうのは、人生で2度目。
大学2年生の、あの夏ぶりのことだった。
◆
大学2年生の夏。
私とマサミと向一郎くんは、ラグビー部の夏季合宿で長野県の山荘に滞在していた。
「マサミ、どうしよう。もうポカリ無くなるかも」
「わかった!私作ってくるから、チー子はこのままタイム見てて」
推薦で慶應の文学部に進学した私は、幼稚園から幼馴染みのマサミと同大学の同学部生に。
そして内部進学の慶應ガールであるマサミにくっ付いて回るうちに、いつのまにか、興味もないのにこの医学部ラグビー部のマネージャーを務めることになってしまっていたのだ。
「ありがとう、マサミ…」
「いいのいいの、まかせて!」
マサミは私に返事をするやいなや、軽い身のこなしでキッチンの方へと駆け出していく。
朝から晩までテキパキと動くマサミは、全身ジャージに身を包んでいてもどこか洗練されていて、優しくて、綺麗で、かっこいい。
内部生らしく成績はイマイチだったけれど、マサミには、それだけではない地頭の良さと内面から湧き出る輝きみたいなものがある。
小学校時代にシンガポールで1年間過ごした以外はずっと女子校育ちの私は、ひさしぶりの共学に戸惑いもあってか、気がつけばこうしていつもマサミにおんぶに抱っこになってしまうのだった。
― あーあ、マサミって本当にかっこいい女の子だなぁ。なんていうか、自分が何をすべきなのか、いつでもちゃんとわかってる…って感じ。
遠ざかっていく彼女の姿をぼんやりと見送っていると、ふと、頭頂部にのっしりとした重みを感じた。
「おつかれ、チー子ちゃん。またマサミに仕事押し付けられてんの?」
視界に、キラキラとした笑顔が飛び込む。私の頭に片手を乗せて微笑んでいるのは、医学部ラグビー部の同じく2年生、向一郎くんだった。
「あっ、ううん。押し付けられてるんじゃなくて、マサミがポカリ作りに行ってくれてるの。私がマサミにばっかり頼っちゃってるんだ」
「またまた。チー子ちゃんは本当優しいなぁ。マサミになんかされたらすぐ言ってよ。俺たちみんなチー子ちゃんの味方だからね」
向一郎くんは、冗談めかしながら顔を近づける。私が上手い返事を考えつかずに固まっていると、背後からマサミの声が聞こえた。
「ちょっと、聞き捨てならないんですけど?チー子の可愛い頭から汚い手どけてもらえますぅ?」
「やべっ、可愛いチー子ちゃんと真逆の女に聞かれたっ」
両手にヤカンを持ったマサミと向一郎くんが、目の前で小さな子どもが戯れ合うように追いかけっこを始める。
そんな光景を目の前にしながら、私の心臓は今にも爆発しそうなくらいドキドキと高鳴っていた。
― 私のこと可愛いって…。向一郎くん、本当にそう思ってくれてる…?
◆
向一郎くんへの想いは、狂おしいほどの恋だった。
向一郎くんのことを考えるだけで、心が甘く、切なく、苦しくなって…これ以上人を好きになることなんて、とてもできないくらい。
興味持てずじまいのマネージャーをこうして続けていられるのも、言うまでもない。入部してすぐに向一郎くんに夢中になったことが、たった一つの理由だった。
間違いなく、一生に一度の恋。
あまりに激しいこの気持ちは軽々しく口にすることすらできなくて、誰にも相談したことが無い。マサミにも。
けれど私は、決めていたのだ。
― 合宿の最終日に、向一郎くんに伝えよう。
激しさを増す想いは、誰にも言えずに秘めていたことで、これ以上隠しきれないほどに膨れ上がっている。
向一郎くんも私のことを嫌いじゃないのなら…早く、早く、恋人同士になりたい。
そして迎えた最終日。私は、飲み会の最中にこっそり向一郎くんを呼び出した。
◆
「チー子ちゃん、どしたの?」
「あ、向一郎くん。ごめんね、飲み会中に」
「いや全然大丈夫。チー子ちゃんに呼ばれたら誰だってあんな飲み会、即抜けるでしょ」
「また、すぐそういうこと言う!」
いつもの軽口に笑った後は、しばらく、なんとも言えない沈黙が流れた。
告白なんて、人生で初めて。一体どんな風に切り出せばいいのかなんて、全く見当もつかない。
「えっと、ただなんか、ああいう大人数の飲み会って苦手で…」
「ああ、確かに。チー子ちゃんにはこういうむさ苦しいのはあんまり似合わないよね。マサミはすごい馴染んじゃってるけど」
どうして、ここでマサミの話が出るんだろう?
違和感と、話を切り出せない緊張とで再び押し黙っていると、向一郎くんはポツポツと言葉を続けはじめた。
「そう言えばさ、チー子ちゃんって、マサミの幼馴染みなんだよね?」
「あいつ、昔はどんなやつだった?今と変わらない?」
「マサミの実家って、たしか大きい病院なんだよね?」
「今まで彼氏っていたのかな」
「マサミって…」
「マサミってさ…」
マサミ。マサミ。マサミ。マサミ。
目の前に広がる夜の景色は、いつのまにか思い描いていたのと全く違った様相を見せていた。
きっと、はじめは軽い話題提供のつもりだったのだろう。けれど、一度話し始めた向一郎くんの口からは、堰を切ったようにマサミについての質問が溢れ続ける。
鈍い痛みと、重い心。私は思わず、耳たぶをぎゅっとつまむ。力一杯。
けれど向一郎くんは、そんな私の気持ちになど全く気づかないように、私の目を正面からまっすぐ見据えて言った。
「マサミって、好きな人とかいるのかな?チー子ちゃん、協力してくれたりする…?」
◆
悪い夢から覚めるように、私はハッと我に返った。
スポットライトに照らされたマサミと向一郎くんは、いつのまにか高砂に到着している。
結局その後、ふたりはほどなくして恋人同士になった。
私の初恋は、伝えることも許されないまま、とてつもないマサミへの敗北感とともに終わりを告げたのだ。
…けれど、マサミのことを恨む気持ちなんて、これっぽっちもない。
こうして高砂に座っている二人をみると、やっぱりすごくお似合いだし…私も結局、こうしていい人と巡り合って家庭を持った。
それに何より、幼稚園のころから家族ぐるみで育ったマサミは、本当の姉妹のように大切な存在だから。
司会に促されて、主賓席から私の母がマイクの方へと向かっていくのが見える。
私の母が乾杯の音頭を務めるくらいの、大親友のマサミ。
きっと、結局開けなかったピアスと同じ。気持ちを伝えられないままで、これで良かったのだ。
「ママぁ?おばあちゃまがこれからお話するの?」
早くも、披露宴という場に飽き始めてしまったのだろう。ひなこがよく通る声で、私に話しかける。
私はニコッと微笑むと、先ほどと同じように人差し指を口元に添えた。
「ひなちゃん。おばあちゃまがお話してる間、静かにできるよね?」
コクリと頷くひなこの前に、私はバッグの中から暇つぶし用のノートと色鉛筆を取り出した。
色鉛筆には一本一本、春から小学1年生になるひなこの名前が、漢字で記入してある。
“高山 日向子”。
ずらりとならぶ、“日向子”という名前。
ずっと、ずっと、いつまでも大好きな人から、一字もらっていることは──。
多分、誰にもばれていない。
【スモールワールド相関図】
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乾杯の音頭を取る、千紗子の母・美津子。彼女がひた隠しにしてきた秘密