
1920年代、エコール・ド・パリの女流画家として活躍したマリー・ローランサン。女性が画家として名を上げるのが厳しい時代に、どのようにして成功したのか。彼女を取り巻く155名とそのエピソードから、その様子を垣間見る。※本記事は、吉澤公寿氏の書籍『マリー・ローランサンとその仲間たち』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
詩人・作家・芸術家 Jean Cocteau
ジャン・コクトー 1889.7.5 メゾン=ラフィット─1963.10.11 ミリー=ラ=フォレ

「コクトーの最高傑作、それは彼の人生だ!!」
と言われるフランスが生んだ偉大な詩人、芸術家のクレマン・ウジェーヌ・ジャン・モーリス・コクトーはマリーの親友の一人であり、マリーは彼の肖像画を多く描いています。
「私と彼はとても良く理解しあえるのです。だってあの人は女ですから。そしてまた、私が上手に肖像画を描けるただ一人だけの男性なのです。彼は女の顔をしていますから」
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とマリーはコクトーのことを語っています。
赤毛の女性と男性の肖像画を描く時は料金を高くしたなどとの噂もあったマリーですが、1921年に描かれた美しい『コクトーの肖像画(カンヴァスに油彩 67×56cm イヴ・サンローラン美術館蔵 Maison de Cocteauに寄託)』はコクトーの知性と優雅さを表したマリーの男性肖像画の傑作です。
1889年7月5日コクトーはメゾン=ラフィットに生まれました。1955年にはアカデミー・フランセーズ会員にも選ばれ、日本を旅行した際には通訳も務めたマリーの友人、堀口大學がコクトーを京都に案内しました。
1963年10月11日親友のエディット・ピアフの訃報を聞いたすぐ後に心臓発作を起こし亡くなりますが、パートナーのジャン・マレは嫉妬心からか心臓は弱っていたが肺水腫」で亡くなったと翌12日テレビインタビューに答えます。
Column
ウォルト・ディズニー社によるアニメ映画で現在でも多くのファンを持つ『美女と野獣』の物語の起源は、西暦125年頃、アルジェリアの北東、マドーレに生まれた小説家で雄弁家ルキウス・アプレイウスの西暦160年から180年の間に書かれた小説集『黄金のロバ(または変容)』の中のプシュケと言われています。
1740年フランスの女性小説家ガブリエル=スザンヌ・ド・ヴィルヌーヴの短編集の一編としてプシュケをもとに書かれた後、ルプランス・ド・ボーモンが個人出版していた子供向け雑誌の中で、彼女によりほぼ現在のストーリーの『美女と野獣』となります。