
本記事は、茶井 幸介氏の書籍『冬の日の幻想』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
囲碁
実に臨場感溢れる見事な描写である。この最大の山場であった第六局を制してタイに持ち込んだ坂田本因坊は、そのあとの第七局に、後に有名になった白百二十「逆ノゾキの手」を放ち、名人位をも掌中に収めたのである。この第七局に打った本因坊の手は、いわゆる好手とか妙手を遥かに超えた「鬼手」として、昭和囲碁史上の語り種になっている。
参考文献『日本の名随筆 別巻(Ⅰ)囲碁』『日本の名随筆 別巻(Ⅱ)囲碁』一九九一年三月 作品社出版
朝比奈隆さんの思い出
クラシック音楽に興味のない方でも、大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者である朝比奈隆さんと言えば、その名を知っている人は意外に多いと思う。平成十三年十二月二十九日、老衰のため九十三歳で、世界最高齢の現役指揮者のまま亡くなられた。
私が初めて朝比奈さんが指揮する演奏を聴いたのは、もう四十数年前のことになる。京都の鴨川沿いにある、女子大学のホールで、当時は関西交響楽団と言われていたオーケストラを指揮された時のことである。
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曲目は、リムスキーコルサコフの『スペイン奇想曲』とベートーヴェンの交響曲第七番(ワグナーがこの曲を舞踏の権化と評して称賛した)であった。若さ溢れる躍動的な指揮振りであったと記憶している。
あれ以来、私は、今尚この二つの曲が好きである。音楽というのは、その種類の違いはどうあれ、レコードやCDで初めて聴く曲と、生演奏で初めて聴く曲とでは、大変な違いがある。これは聴く人個人によって様々だろうが、私の場合、生で聴いた曲は、その後必ずその曲が好きになるということである。
会場の雰囲気や聴衆の息遣いとざわめき、演奏前の心の高ぶり、入り口で貰ったパンフレットを読む楽しみ、時間があればロビーにある喫茶店で一杯のコーヒーを飲む。これから始まる演奏会に全神経が集中する。演奏が終れば、歓喜と感動と興奮が全身を陶酔させる。このような様々な心の動きは、家の応接間では決して味わえない。
これらが恐らく聴覚と大脳を刺激し、限りなき余燼を残すのであろう。
朝比奈隆さんというと、私には二つの珍しい記憶が甦ってくる。
一つは、もう古い記憶で、場所もどこのオーケストラだったかも定かでないが、ある演奏会で、客席が満員になり、両脇の通路が補助席で一杯になったことがある。既にライトが消えた演奏直前の会場は、咳払い一つする人もなく、シーンと静まり返っていた。指揮台に立った朝比奈さんが最初のタクトを振り上げた瞬間、補助席の椅子がバタンと物凄い音を立てて倒れたのである。