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「励まし」と「救済」の文学 ノーベル賞の大江健三郎さんは何を残したか

J-CASTニュース

作家の大江健三郎さんが亡くなった。88歳だった。川端康成さんに続いて、日本人としてノーベル文学賞を受賞した大江さんは、大学在学中に芥川賞を受賞。その後も次々と問題作を発表し、同時代の日本人に大きな影響を与え続けた。反核、護憲など、単なる作家にとどまらない多彩な活動でも知られ、戦後にデビューした日本文学者の中では、別格の存在だった。

20代で問題作を連発

若くして芥川賞を受賞する人は少なくない。しかし、受賞後、立て続けに新作を発表し続けた作家はほとんどいない。大江さんは、その稀有な一人だった。

大江さんが芥川賞を受賞したのは58年、23歳の時だった。この年は、「文学界」1月号に受賞作となる『飼育』、すぐに同年の「新潮」2月号に『人間の羊』、「文藝春秋」2月号に『運搬』、「文学界」3月号には『鳩』、「群像」6月号には初の長編『芽むしり仔撃ち』、「文学界」6月号には『見るまえに跳べ』など、1年に10本近いハイペースで作品を発表し続けた。

翌59年は書きおろしの『われらの時代』、60年は『後退青年研究所』や『遅れてきた青年』、61年には『セヴンティーン』。いずれも20代半ばの作品群だ。

64年には『個人的な体験」、65年は『厳粛な綱渡り』。66年には全6巻の「全作品集」が早くも刊行された。そして67年には代表作『万延元年のフットボール』を発表している。このとき、まだ32歳だった。すでに10歳年長の三島由紀夫、27歳年長の川端康成らの先輩作家と肩を並べる大家となっていた。

長男が生まれてテーマが変わった

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才能が爆発するかの如く話題作を連発していた大江さんに、大きな転機が訪れたのは、1963年。28歳の時だった。生まれたばかりの長男、光さんが知的障害を持っていることがわかった。

のちに大江さんは語っている。

「僕はかつてない揺さぶられ方を経験することになった。いくらかの教養や人間関係も、それまでに書いた小説も、なにひとつ支えにならないと感じた」(89年6月、朝日新聞)

しかし、その苦しい思いを、大江さんはすぐさま翌年、『個人的な体験』として作品にまとめ上げた。雑誌AERAは、大江さんがノーベル賞を受賞した後の1994年12月19日号で「原点は励ましの文学」という記事を掲載している。

その中で、大江さんの過去の作品のほとんどを読破したというジャーナリストの小島郁夫さんは指摘している。

「子どもが生まれてから、作品のテーマは、前向きなものに変わった。初期のころは、政治や革命、暴力がよく題材とされていたが、それ以後は、創造力や希望についても語り始めている」

作品の中で「励ます」という言葉がしばしば使われるようになったという。

ノーベル文学賞の受賞理由も、「想像の世界の中で個人的なものを掘り下げることで、人間に共通するものを描き出すことに成功した。これは、脳に障害のある子の父となってからの作品にとくに言える」とされている。

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