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震災から12年…宮城県山元町「集団移転」の現在地 「新たな地域づくり」直面した難しさと手応え

J-CASTニュース

「復興道路」から見える光景が、寂しげだった。宮城県南部・山元町。かさ上げのうえ整備された県道相馬亘理線を車で5分ほど北上すると、右側に見える太平洋との間に挟まれた土地は人家がまばらだ。走行中、全くの原っぱが広がることもあった。

かつてそこで、多くの人が生活していた。2011年3月11日の東日本大震災、津波が地域を破壊した。被災した人の住まいをどうするか――。行政が出した答えは、集団移転。町民の暮らしは、ガラっと変わった。

早々に「コンパクトシティー」の方針

山元町では震災後、大胆な復興計画が進められた。津波で損壊し不通となったJR常磐線は、路線ごと内陸に移動。町内の坂元駅、山下駅も以前とは全く別の場所に再建され、2016年12月に鉄道は運行を再開した。

移動したのは常磐線だけではない。被災した町民も同じだった。行政は、国道6号線沿いや2つの駅を軸に集団移転先を設け、新たな市街地とする「コンパクトシティー」の方針を早々に打ち出した。山下駅前の「つばめの杜地区」、坂元駅周辺の「町東地区」、その間に位置し病院に近い「桜塚地区」の3か所だ。一方、条例で、津波等の危険の著しい区域を「津波防災区域」として3つに分類。沿岸地域を「第1種区域」に指定し、既存住宅の修繕を除き住宅、アパート、マンションといった居住用の建物の新増改築を禁じた。

津波で家を失い、仮設住宅に暮らしていた沿岸地域の住民は、住み慣れた土地を離れて移転先の選択を迫られた。同じ町内でも、3か所ともなじみが薄い場所だ。しかも、隣近所は誰が来るかわからない。不安だらけだったことは、たやすく想像できる。

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行政側も、集団移転は初めての経験だった。まちづくりのサポートを今日まで担っているのが、「東北まちラボ」の橋本大樹さんだ。コミュニティー再生のノウハウを持ち、2012年に神戸から山元町に入り、住民と向き合い続けてきた。新設された3地区の移転者と、沿岸部に残った人々の双方を長期にわたり支援している。

「自治会を作る」直面した苦労

集団移転先となった3地区では、いちからコミュニティーを築かねばならない。橋本さんは、住民が自分たちの力で地域の課題を解決する形を目指す。その基礎となるのが、自治会だ。だが設立・運用は、各地区で事情が異なった。

3地区で世帯数が最多の「つばめの杜」は、西区と東区に分かれる。西区は2013年4月、東区はその2年後に住民の入居が始まり、自治会が新設された。町東地区の場合、既存の自治会に「融合」。桜塚地区は、造成が遅れ入居開始が2016年12月までずれこんだ。しかも、当初想定していた既存自治会との融合がかなわず、翌17年3月に独自の自治会新設となった。

お互い顔を知らない住民同士。「自治会を作る」という慣れない作業。設立準備の段階で、橋本さんは徹底した話し合いを重視した。だが「なかなか意見を言わない人が多い。皆さんから話を聞き出すのが大変でした」。会合を重ねると、参加者の顔ぶれがほぼ同じになっていった。それでも限られた時間のなかで自治会を立ち上げ、役員を決め、スタートさせないとコミュニティーの運営に支障が出る。橋本さんは、目の前の課題をクリアするため、プロセスを踏んで合意を形成する手順をこなしながら、物事を前に進めるしかなかった。

住民同士の交流も促す必要があった。例えば「つばめの杜」では、入居開始から2、3年は、地区単位でのイベントが多かった。お茶会に夏祭り、クリスマス会に新年会……。

「とにかく、人が集まる機会を作りました。ただ参加する人が決まってしまい、出てこない人は出てきません」

橋本さんは、こう振り返る。2020年以降は、新型コロナウイルスの感染が拡大。オンラインより「会ってナンボ」の年配者が多い3地区では、難しい状況が続いた。

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