『私の、忘れられない冬』
ライターの希依(28)は、WEBエッセイに自身の過去を赤裸々に綴った。
その記事の公開日、InstagramのDMに不思議なメッセージが届く。
「これって、青崎想太くんのことですよね?LINE、知ってますよ」
平和だった希依の人生が、めまぐるしく変わっていく―。
◆これまでのあらすじ
希依は、DMの送り主が咲だったことを知る。その背景にあったのは、咲が、希依の夫・正介と関係を持っていたという受け入れがたい事実だった。
▶前回:親友の住むマンションから、なぜか部屋着姿の夫が出てきて…。女が青ざめた、まさかの事実
「被害者みたいな顔しないでほしいな」「非はお互いにあるんだから」
正介の言葉を聞いて、希依は怒りで頭がおかしくなるかと思った。
しかし、そんな希依の気持ちを知ってか知らずか、正介は平然と希依の背中へと手を伸ばし、トントンと優しく叩く。
馴染み深いその大きな手を、希依は振り払った。
「やめて。触らないで」
正介は、目をしばしばさせ、納得いかなそうに「なんで?」と言う。
「…怒るのは違くないか?俺が責められる言われはないよ。希依だって、想太ってヤツと何回か2人きりで会ってたんだろ?
俺、希依に忘れられない男がいるって知ったとき、どれだけつらかったか」
「だまって」
希依は叫んだ。
「正介が咲と関係を持たなければ、私は想太と再会することもなかったわ!」
自分にも非はあると、自分でも分かっている。
しかし、道を踏み外しかけたが、自分の判断で引き返してきたのだ。
最終的に想太を振ったのだという自覚が、希依の自信になっていた。
「私も悪かったけど、正介のほうがずっと最低よ。何より、私は不貞行為はしてないんだから」
語気を荒らげる希依の顔を、正介は、面倒そうに見つめる。
「正介はずっと咲に夢中で、身を引こうとも思わなかったんでしょ?あなたたち、一体何回…」
― 一体何回、寝たの…?
想像したら身の毛がよだち、あわてて言葉を引っ込める。
― ああ、もう。こんな目に遭うなんて…。
正介は咲のどんなところに惹かれたのだろうかと、希依はモヤモヤした。
自分より咲が選ばれる理由がわからず、釈然としないのだ。
かすれた声で、恐るおそる聞く。
「…なんで、正介は咲と関係を持ったの?私より咲がよかった理由は?」
「それは…衝動だよ。なんていうか、咲ちゃんを守りたくなって。ほら、咲ちゃんは、俺なしではダメになりそうだから」
「は?」
「希依は、いつもニコニコしてて、ひとりでも幸せそうで…俺がいなくても大丈夫そうっていうか」
正介は、しどろもどろな口調で言い、頭をかいた。
― つまり、危うくて、放っておけなかったってこと?
希依は、笑うしかなかった。どこかで聞いたことのある、ありふれた言い訳だったからだ。
「どっと疲れた、帰るわ」
希依は背中を向ける。しかし、気になることが頭に浮かび、足を止めた。
変だと思ったのだ。
以前、希依が咲に想太への思いを打ち明けたとき──咲は、希依を非難した。
― 咲は、私と想太がくっつくように仕向けたかったんだよね?
ならば、もっと応援すればよかったではないか、と思った。
「ねえ。私が想太について相談したとき、咲はなんで、私を責めたの?」
「それは…」
咲はしばらく口ごもり、何かを考えている様子で視線を上にやる。
「なんていうか…希依を見て、モヤモヤしたの。想太と再会して、希依があまりにも幸せそうだったから」
咲は、遠い目をした。
― それって…。結局、正介と一緒になることより、私にこだわってるってことだよね?
希依は思う。
咲は、希依の存在がただ目に付くだけなのだろう。
― 私が少しでも幸せそうにしてると、邪魔をしたくなるわけね。
不意に咲のことが心配になるが、できることなどない。
― たぶん咲は、正介を手に入れたところで、満たされないだろうな。
まだ冷や汗がひかない手のひらを擦り合わせながら、希依は黙って立ち去った。
◆
あれからすぐに、希依は正介と離婚した。
離婚したての頃はさすがにさみしさもあったが、3ヶ月間ライターの仕事を山のように入れ、なるべくあれこれ考えないで済む環境を作った。
そして、1年後の今。
「どう?荷解き、進んだ?」
背後から声をかけられて、希依は我に返る。
希依のうしろにいるのは、想太だ。
紺色のエプロンをつけて、優しく微笑んでいる。
2人は今日から、自由が丘の新しいマンションで同棲を始める。希依は今、段ボールを開け、本棚に本を移動させているところだ。
希依が想太と付き合ったのは、離婚から4ヶ月後のことだった。
希依のほうから、改めて想太に「付き合ってほしい」と言い、こうして復縁するかたちになったのだ。
そして2ヶ月前に、想太から「結婚を前提に同棲しよう」と切り出された。
「一緒に住んだら、希依の本も読み放題になるのか。うれしいな」
本棚に並べかけの30冊ほどのラインナップを見て、想太が笑う。
「自由に読んで。あ、よかったら想太の本も並べとくよ。どの段ボールにある?」
「自分でやるからいいよ。それより、疲れたろ?ランチ作ろうと思って。なにか食べたいものはある?」
希依は「クリームパスタ」とリクエストする。
「おっけい。期待しておいて」
キッチンへと歩いていく想太の背中を見ると、頬が緩んだ。
― いよいよ、想太との生活が始まったんだ。
正介と離婚して数ヶ月経った頃、顕彰から、咲の近況を聞く機会があった。
結局正介と咲は、一緒に暮らしはじめたのだという。
しかし、先月咲のInstagramをふと見たところ、「オーストラリアに留学に来ました」との投稿を見つけた。
結局正介と咲は、別れたのか、別れていないのか。希依は知らない。
今が幸せだからこそ、正介のことなど気になりもしないのだった。
そのとき。
「…なにこれ」
段ボールの中身を見て、希依は、間違えて想太の荷物を開けてしまったことに気づく。
そこ入っていたのは、ボロボロになるまで使い込まれたノートだった。
なんとなくパラパラと中身を見て、希依は愕然とした。
― 想太、これ…。
そこには、希依がこれまで書いた記事がきれいにスクラップされていた。
しかも、同じようなノートが、5冊もある。
雑誌の記事だけでなく、Web記事も、丁寧にプリントアウトされて貼られていて…。
― じゃあ、想太はずっと、私を遠くから応援してくれてたの?
連絡を取っていない時期も自分を気にしてくれていたのかと、希依は驚く。
一体いつから応援してくれていたのか。記事を、どんな想いで読んでいたのか。
気になることが、たくさん頭に浮かぶ。
「ねえ」
呼びかけたが、希依はすぐに口をつぐんだ。
質問したい気持ちを飲み込み、ノートを閉じて段ボールへと戻す。
もっとしかるべきタイミングに、じっくり聞きたいと思ったからだ。
― だってこれから、長い長い2人の時間があるんだもの。
ふと、向こう何十年に思いを馳せる。
途方もない未来を想像するだけで、今まで感じたことのないほど満ち足りた気持ちになった。
― 幸せ…。
正介との新婚生活初日のときも、確かに幸せだと感じた。しかし今日は、その日とは比較にならないくらい、幸福感に包まれている。
― 想太と、こうして戻れてよかった。
もう二度と見失ったりしない。側にいて、互いに温め合い続けよう。希依はそう思った。
想太の段ボールを丁寧に閉じ、清々しい笑顔で立ち上がる。
「私も一緒に作る」
キッチンに立つ想太のもとへ、希依は、駆け寄っていく。
Fin.
▶前回:親友の住むマンションから、なぜか部屋着姿の夫が出てきて…。女が青ざめた、まさかの事実
▶1話目はこちら:「もう無理」と、イブに突然フラれた女。数年後、謎のDMが届いて…