いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。
それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。
成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。
▶前回:2年間支えてくれた彼女に、別れを告げた男。破局の決定打となった、彼女のある一言とは
Vol.5 真奈美の物語
私、パリには行けない…
― へぇ、そんなに遠くないんだ。
日暮里駅から京成特急スカイライナーに乗り、46分。
車窓に広がる田園風景をぼんやりと眺めていたら、あっという間に成田空港に到着したので、真奈美は驚いた。
スーツケースを携えて、4階の出発フロアへ向かう。
「えっと…このスタバでいいんだよね?」
目の前を、旅行客や見送りの人々が絶え間なく行き交う。その合間を縫って、真奈美は店の入り口から少し離れたところに立った。
そして、ふと思った。
― 空港って、不思議な場所。なんていうか、旅行前の楽しい空気が至るところに満ちている感じ。
「…はぁ」
それなのに、深いため息が漏れてしまう。
― 11時15分…。そろそろかな。
スマホを手に取り、時刻を確認したときだった。
「真奈美っ!ごめん、待った?」
大学時代からの友人・佳織と今日子が揃ってやってきた。彼女たちは、東京駅からリムジンバスに乗ってくると言っていた。
「ううん、私もさっき着いたところ」
「そっか、よかった!って、真奈美―」
次の瞬間。
ただでさえ大きな佳織の目がパッと見開かれ、真奈美の足元にくぎ付けになった―。
「いいなぁ、真奈美。それ、ヴィトンのホライゾンだよね?」
佳織が指差したのは、ホライゾン 55。去年30歳を迎えたときに買った、まだ新品のスーツケースだ。
「でもそれ、海外旅行にはちょっと…小さくない?」
佳織のあとに、今日子も続く。
「本当!買い物したら、何も入らなくなりそう。あ、私のスーツケースには入れてあげないよ?」
― 確かにそう思うよね。だって、今からパリに行くんだもん。
「やっぱり?私、なんか間違えちゃったかも」
真奈美は、2人に合わせて無理やり笑顔を作った。
「真奈美って、そういうとこあるよね。じゃあ、軽くお茶してから、チェックインしよっか」
2人はリムジンバスの中からこの調子だったのだろう、と真奈美は思う。いつもよりテンションが上がっているようで、笑い声のトーンが高い。
スタバでドリンクをテイクアウトすると、3人は滑走路が見えるエリアへと移動する。
「うわー!久しぶりに空港にきたって感じがするね」
「うん、やっぱり空港ってテンション上がるよね」
真奈美も、2人と同意見だ。
― 飛行機の離発着って、すごい迫力。ずっと見ていても飽きないかも。
ついぼんやりと、窓の外の光景に見入ってしまう。
「ねぇ…」
しかし、すぐに佳織の声で現実に引き戻された。
「ねぇ、真奈美。写真お願い!」
「えっ?ああ…」
真奈美は、あつあつのキャラメル クリームを飲もうと、カップに口をつけたところだった。しかし、反射的に佳織のスマホを受け取る。
スタバのカップは、ホライゾンの上に置くほかない。
― どうか、こぼれませんように…。
恐るおそるカップを置いて、真奈美は慣れた手つきでスマホを構えた。
「じゃあ、撮るよ」
“今からパリに出発しま~す!3年半ぶりの海外旅行、楽しみっ”
真奈美は、佳織と今日子が飛行機を見てはしゃいでいる様子を動画におさめた。
「はい、これでどうかな?」
「あー、うん。もうちょっと滑走路とか、飛行機が映るように撮ってほしいかも」
結局、動画だけで3回も撮り直し。ほかにも、数十枚の写真を撮った。
2人が動画をストーリーズに投稿している間、真奈美は、ぬるくなったキャラメル クリームを口に含む。
― まぁ、いつものこと…だよね。
◆
真奈美が、佳織と今日子と出会ったのは、大学3年のとき。
2人はミスコンの参加者。真奈美は、実行委員会の手伝いをしていた。
そんなある日、彼女たちが自撮りに苦戦しているところに出くわしたのが、会話をするようになるきっかけだった。
「あの、よかったら写真撮りましょうか?」
「わー、ありがとう!じゃあ、これで」
この日を境に、顔を合わせるたびに、真奈美は写真撮影を頼まれるようになった。
それが、いつからか一緒に食事をしたり、遊びに行ったりもするような仲になったのだ。
― こんなキレイな子たちが仲良くしてくれるだなんて…。
真奈美は、素直に嬉しく思った。
大学卒業後、真奈美は法律事務所の事務職。佳織と今日子は化粧品会社。それぞれ違う会社に就職したけれど、ニューヨークやバリ島、ハワイ、台湾にも3人で旅行をした。
10年来の友達、それが佳織と今日子だった。
12時―。
「うそ、もうこんな時間…。チェックインしなきゃ」
今日子に言われると、3人は慌ててチェックインカウンターへ向かう。
「うわ、結構並んでるね」
「ねー、みんな同じ便なのかな」
14時発のフライトは、チェックインを待つ乗客が長蛇の列を作っていた。
真奈美たちは、その最後尾に並ぶ。
待つこと20分。やっと自分たちの番がやってきた。
「お客様、こちらへどうぞ」
呼ばれたのは、ビジネスクラスとエコノミークラスの間にあるチェックインカウンター。
どうやら、マイレージがたくさん貯まっている乗客専用の優先カウンターらしい。たまたま利用客がいなかったからなのか、真奈美たちはそこでチェックインをすることになった。
「大変お待たせいたしました。パスポートと、eチケットの控えをお預かりします」
カウンターには、担当職員の顔写真と名前が書かれたプレートが立てられている。
― HANEDA MIKAさん…。マスクをしているのがもったいないくらい、キレイな人。
真奈美は、自分の分と、友人2人の分のパスポートと必要書類をまとめてハネダさんに手渡した。
「窓側と通路側、どっちの席がいい?」
「えー、どっちでもいいよ!途中で交換したらいいじゃん」
佳織と今日子は、楽しげに会話をしている。
そこに割って入ったのは、ハネダさんだった。
「足立真奈美様。恐れ入りますが、もう1冊パスポートをお持ちではありませんか?」
「…え、パスポートはこれしか持ってきていませんけど」
さっきまでワチャワチャしていた佳織と今日子も、シンと静まり返る。
「こちらのパスポートですが、有効期限がすでに切れてしまっているようです。更新されたものをお持ちではないでしょうか?」
「…あ」
真奈美は、両手で口を覆った。
「え…何、真奈美のパスポート使えないってこと?」
「新しいパスポート、持ってきてないの?」
まさか、というような顔で2人は真奈美を見る。
「うん…間違えちゃったみたい」
「えー!あり得ないっ」
「そんなことって、ある!?あの、こういう場合って、どうなるんですか?」
今日子の質問に、ハネダさんが簡潔に答える。
「大変申し訳ございませんが、こちらのパスポートをお使いいただくことはできません。有効期限内のパスポートをお持ちいただく必要があります。しかし―」
「それって、私たちはどうなるんですか?」
かぶせ気味に口を挟んだのは、佳織だ。
「ほかの2名様は、問題ございません」
2人が顔を見合わせてホッとした様子を、真奈美は見逃さなかった。
「足立様。当便はまもなく手続き終了の時刻となります。搭乗開始時刻までは1時間ほどあるのですが、どなたかパスポートを届けてくれる方はいらっしゃいませんか?」
「いえ、独り暮らしなので…。家も遠いですし。あの、私は―」
「あの、私はキャンセルします」
真奈美は即断した。
なぜなら、真奈美は、あえて古いパスポートを持ってきたからだ。
「キャンセルって、もう…!真奈美、何やってるのよ」
「…本当。せっかく楽しい気分だったのに、テンション下がるんだけど」
「佳織、今日子…ごめん」
みんなから疑われないようにと、真奈美は視線を落とす。
「だいたいさぁ」
佳織がいら立った口調で何か言おうとする。真奈美は、体をギュッと硬くした。
そのとき―。
「足立様。こちらのチケットは、予約の変更や払い戻しができないものです。
キャンセルの手続きは必要ありませんが、念のため、お買い求めになった旅行会社に事情をお話になられるといいかもしれません」
― ハネダさんのおかげで、助かったぁ…。
「わかりました。じゃあ、2人はこのままチェックインしてね」
古いパスポートを受け取った真奈美は、チェックインカウンターの出口で彼女たちを待つ。
少し離れた場所から2人を見ていると、自分がいなくても十分楽しそうだ。
― これで…いいんだよね。
真奈美は、佳織と今日子にもう一度謝罪すると、保安検査場に向かう様子を最後の動画におさめて見送ったのだった。
真奈美は、佳織のInstagramを確認してみる。
“大学時代からの親友・今日子と2人で行ってきま~す!”
さっそく楽しそうな様子が投稿されていて、真奈美がいないことで気落ちしているようにはちっとも見えない。
別れた直後に真奈美が送った“ごめんね”のLINEも、既読スルーされたままになっている。
― きっと2人でも楽しいよね。ううん、2人のほうがいいんだよ。私は…もう一回スタバに行こうかな。
今度こそ温かいキャラメル クリームを手に、空いている席を探す。
― あそこ、空いてる!あれ、あの人…さっきのハネダさんじゃない?
視線の先には、コーヒーカップを持ったハネダさんが座っていた。休憩時間なのだろうか。
真奈美の視線に気がつくと、背筋を伸ばしたまま頭を下げてくる。
「あの…、さっきはご迷惑をおかけしました」
若干の気まずさを感じながら、真奈美はハネダさんのとなりの席に座った。
「いえ、お気になさらないでください。それより、ご旅行残念でしたね」
「うーん。実は私、本当はこの旅行に行きたくなくて…」
彼女は、驚いたふうでもなく「そうですか」とただ相づちを打つだけだった。
「2人にはずっと言い出せなくて。嫌な思いをさせただろうし、お金だって無駄にしてしまいました。いい大人なのに、情けない…引きますよね」
真奈美は、どの旅先でも2人のInstagramに載ることはなかった。
彼女たちの投稿には、“2人旅ですか?”とか、“美女2人旅”とかコメントがつく。
それを見るたびに真奈美は、自分なんていないも同然だと勝手に寂しく思っていた。
現に、真奈美がホテルでシャワーを浴びているときに「真奈美カメラマンがいてくれると、本当に助かるよね」という2人の会話が聞こえてきたこともある。
― この10年…私だけが、一方的に友達だと思っていたのかな。
真奈美は続ける。
「今日久しぶりに空港にきて、この空気いいなって。私、本当は旅行が大好きなんです。けど、もうずっと楽しめていなかった。これからは、一緒に行く相手も…いなくなっちゃったかもしれないですけど」
「…旅行って、ワクワクする気持ちがあれば、誰かと一緒でも、そうでなくても楽しいものになるんじゃないでしょうか。お客様次第だと、私は思います」
今度は、ハネダさんが続ける。
「それに、いるじゃないですか。素敵な相棒が」
「えっ?」
「そちらの素敵なスーツケースと、楽しい旅をたくさんしてください。またお待ちしております」
そう言うと、ハネダさんは席を立った。
― 自分次第、か。
真奈美は思う。もしかしたら、2人に利用されていたところもあるかもしれない。でも、自分だって、そんな2人に依存していたのではないだろうか。
― せっかく1週間も休めるんだから、自分を見つめ直すために、初めての一人旅に出てみるのもいいかもしれない…。
真奈美は、ホライゾン 55の滑らかな表面をソッと優しくなでる。
それから、容量37Lのスーツケースにピッタリな国内旅行の行き先を、頭の中に思い浮かべるのだった。
▶前回:2年間支えてくれた彼女に、別れを告げた男。破局の決定打となった、彼女のある一言とは
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