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同期入社の男女が過ごした一度きりの熱い夜。いまだ友人同士ふたりが数年後に再び…

東京カレンダー

同期入社の男女が過ごした一度きりの熱い夜。いまだ友人同士ふたりが数年後に再び…

― 【ご報告】―

SNSやメールでたびたび見るこの言葉に、心がざわついた経験はないだろうか?

人生において、新たなステージに入った【ご報告】をする人。

受ける側は【ご報告】されることによって、相手との関係性を見直したり、自らの人生や現在地を振り返ることになるだろう。

この文字を目にした人は、誰もが違う明日を迎える。

これは【ご報告】からはじまるストーリー。



Vol.1 <ご報告:退職します>


大手損害保険会社に勤務する林健太郎は、ある月曜の朝、オフィスで社内メールを確認して驚愕した。

同期入社の村山翠からの一斉メール。

そこには、彼女が1ヶ月後に退社するという『ご報告』が記されていたのだ。

「嘘だろ…そんなこと一切聞いてないぞ」

何よりもショックだったのが、退職の相談どころか、事前の報告を一切受けていなかったこと。

この自分が、他の同期はもとより、上司や取引先などと同列に扱われていることを思い知らされた。

確かに、2年前から勤務する支社が離れ、会うのは頻繁ではなくなった。が、それでも翠とは友人以上の関係であると、勝手にうぬぼれていたのかもしれない。

一浪一留の健太郎より、2歳年下の28歳の翠。

東京出身にもかかわらず関西学院大を卒業した健太郎と、神戸女学院大を卒業した翠とは、かつて同じ街に住んでいたという共通点で、入社すぐの研修で意気投合した。

お互い、隣同士の部署に配属されてからも、ずっと切磋琢磨してきた。

ほぼ毎日顔を合わせ、定時後も業務の振り返りやリフレッシュのために、食事を共にすることも頻繁。

つまり、一昔前の言葉で言うと翠とは、友達以上・恋人未満の関係だったのだ。

ただ、お酒が入った勢いで、2年ほど前、彼女が別部署に異動するタイミングでベッドを共にしてしまったことがある。

その時は気まずさもあり、笑いながら「お互いどうかしていたね」と、無理やりなかったことにしたのだが──。




「そうよ。大学の時の同級生が、地元で起業するからって誘ってくれたの」

「大学の友人の地元って」

「そう、神戸」

原宿の『大衆酒場 BEETLE』のコの字カウンターに横並びで座った翠は、『ご報告』を見て慌てて連絡してきた健太郎に向かって、あっけらかんとそう告げた。

「起業って、そんな無謀な。大学の同級生って同い年くらいの女の子だろ。そんな甘い話じゃないよ」

「いやいや。灘の酒造をプロデュースしたり、兵庫テロワールに関連した観光誘致の仕事なんだけれどね。何年も前から準備していたことを知ってるから、健太郎が思うような甘い意識でやっていないはず」

そう言いながら翠は、眉間にしわを寄せて菊正宗を冷やで飲む。

不機嫌そうな横顔はいつものことだ。

「いや、でも」

「『でも』って?同期の友人の旅立ちを快く送り出すことはできないの?」

奈良美智の描くイラストの女の子に少し似ている、小柄で小動物のような雰囲気の彼女。

たまに見せる笑顔が可愛らしいが、ちょっと口が悪くて意地っ張りな翠と健太郎は、正直なことを言いあえる間柄だ。



サシ飲みはいつも大衆酒場で。

健太郎に恋人がいるときも、相手が翠なら何故か許されていた。

「あ、もしかして、報告が一斉メールで気に食わなかったの?」

「そうだよ、俺に対して失礼じゃないのか」

「やだ、拗ねちゃってるんだ」

翠は健太郎の肩を叩いて、その本音を茶化した。

「うるさいよ」

笑いあい、退職の話に一段落ついた先は、いつも通りの同期のうわさ話や上司の愚痴。加えて、最近行った美味しい店のことなど、他愛もない話に流れた。

気づけば、アルコールも進んできている。

翌日は休日。タクシーでも帰ることのできる距離にお互いの家はある。

もうこんな機会は少なくなるのだからと、健太郎は翠と時間を気にせず過ごすことを心に決めた。

― そういえば、あの時も、こんな感じだったな。




翠の異動が決まった夜。

健太郎は、個人的な送別会と称して彼女を誘った。

思いのほか話が盛り上がり、目が覚めると、翠の住む代々木上原のマンションの部屋にいた。詳細は覚えていない。

「また飲もうな。気軽に誘ってよ」

彼女の家からほど近くにある『ブーランジェリー&カフェ マンマーノ』で気怠いブランチを取り、駅で見送ってもらったあとは、交際することもなく現状維持となった。

結局、異動後もたまに誘って何度か食事したけれど、その時の話題は一切出ないし、お互い出そうともしない。

タブーというわけではないが、気が合うからこその暗黙の了解のようなものだ。

しかし、健太郎の心の中にいまだにその時のことがこびりついて離れないのは、れっきとした事実だった。




結局、終電に近い時刻まで店にいた。

味気のない『ご報告』メールをとがめるもりが、生産性のない話に終始し、恐らく最後であろう夜があっさりと終わりを迎えようとしている。

「まぁ、俺らも色々あったけど、お疲れ様」

ずっと頭の片隅にあったからだろうか。健太郎は、お会計を支払い終えたところで不意にそんな言葉を漏らしてしまった。

「色々?」

翠はそれを聞き逃さなかったようだ。

健太郎はパンドラの箱があいたような感覚をおぼえた。酔いは一気に醒めた。

「え…あ、色々だよ」

「あの夜のコト、本当に忘れているの?私はずっと心に引っかかていたのに」

健太郎の瞳を、翠ははっきりと捉えている。

しばらく訪れる沈黙。

彼女は、その答えを待つことができず、途切れがちに声を絞った。

「あの夜ね、私、健太郎の彼女になれるのかなって、思ったんだよ。誘ったのは私からだけど、受け入れてくれて本当に嬉しかった」



「え、そうだったの?」

「本当に忘れてたんだ。最後だから言う。健太郎のこと、好きだったよ」

晴れやかな翠の笑顔。

愛らしくて、思わず抱きしめたいと思ってしまう自分がいた。

― いや、ずっと抱きしめたかったのかもしれない。

「な、なんだよ、最後の最後に」

「だから、最後だからって言っているじゃない。気まずくなりたくなかったから。あのことがあって、数日間、顔合わせるの辛かったもの」

重たい雰囲気に耐えられずに健太郎は、翠の告白を乾いた笑いでごまかそうとする。

けれど、その直前でハッとした。

あの時もそうだった。翠と一夜を共にしてしまったあとも、気まずさのあまりごまかしたのだ。

結果、火種をずっと燻らせたまま、今に至る。

このままではいけない。

― 翠のことが大切だから。ずっと一緒にいたかったから、俺は逃げていたんだ。

ふいに、どっと後悔が押し寄せる。しかし、何と言っていいのかわからなかった。

「い、いや……だって気まずいさ!それにさ、セクハラとか、そういうのを強要された!とか言われるんじゃないかってビクビクしてたし」

結局、いつものように健太郎は笑う。翠なら、きっとそのノリに合わせてくれるだろう。そう信頼しながら。

「…」

「でもよかったよ。俺も──」

『翠のこと、いいなと思ってる』。そう告げようとしたが、ためらった。

彼女の不機嫌な視線が、相変わらずのそれとは違う、さらに違うものになっていたから。

「健太郎のそういうところがね、やっぱ無いな、と思ったところ」

「え…」

翠は、軽蔑の視線を健太郎に送っている。

そういえば、彼女は「好きだった」と過去形で言っていた。

今は違うというのだろうか。

「やっぱ無い?」

「うん。健太郎はいつまでたっても健太郎だね。逃げてばかり。

まぁ、こうしてまだお酒を酌み交わせる友達のままではいられるから、結局のところはこれで良かったかもね。神戸に出張の時は気軽に遊びに来てよ」

店を出る彼女を追いかけながらも、健太郎は話を続けようと試みた。

「え、え…ちょっと待って」



「じゃ、気をつけて。バイバイ」

翠は颯爽と、大通りでひとりタクシーに乗り込んだ。

静かな夜闇にタクシーのテールランプが吸い込まれていく。

もうすでに終電はなくなってしまっている。

タクシーに飛び乗って翠を追いかけることはできたはずだけれど、これ以上、翠に軽蔑の眼差しを向けられるかと思うと、どうしても足が動かなかった。

すっかり見えなくなったテールランプをじっと見つめながら、健太郎は走馬灯のように過去を振り返る。

翠のことを特別に思っていたのに、どうしてごまかしてばかりだったのか。どうして最後の夜を、セクハラなんて言葉で茶化してしまったのか。

他人行儀に送られてきた『ご報告』のメールが、改めて健太郎の胸を抉る。

― 最後まで、素直じゃないんだな。

まだ肌寒い中帰り道を歩きながら、健太郎は心の中で呟いた。

その言葉は彼女ではなく、ほかでもない、自分へ向けてのものだった。


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