お嬢様OL・奥田梨子も、そのひとり。
実家は本郷。小学校から大学まで有名私立に通い、親のコネで法律事務所に就職。
愛くるしい容姿を持ち、裕福な家庭で甘やかされて育ってきた。
しかし、時の流れに身を任せ、気づけば31歳。
「今の私は…彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ。どうにかしなきゃ」
はたして梨子は、幸せになれるのか―?
◆これまでのあらすじ
梨子は、かつてあこがれていた高校時代の先輩、アンドリューこと安藤からのプロポーズに「Yes」と言う。ついに結婚へ向け動き出すが…。
▶前回:憧れの先輩からプロポーズ。女が返答に困ったのは、彼の“ある思惑”が見えたからで…
『梨子:私、安藤梨子になります♡』
梨子は、紀香へのLINEメッセージを入力してから、深々とため息をついた。
アンドリューと付き合い始めてからの日々は、梨子の人生史上、最も多忙だ。
早く結婚したい、というアンドリューの熱意に負け、急いで結婚の準備に入っている。
アンドリューは、先日さっそく梨子の両親に挨拶に来てくれた。
「まあ、梨子ちゃん、本当に良かったわね!お母さんね、実は安藤先輩とうまくいってくれると良いなって思ってたのよ」
母の梨絵は、アンドリューが持ってきた羊羹の木箱を抱きしめながら、ワルツでも踊り出しそうになっていた。
父も「お母さん、落ち着きなさい」と言ってはいるものの、そわそわしながら言った。
「まさか、2人がねえ。でも君ならお父さんも安心だよ。梨子、安藤くん、おめでとう」
ありがとう、と答えながら、自分が両親をこんなに喜ばせたのはいつぶりだろうか、と心の片隅で考えていた。
次の週末は、アンドリューの実家に挨拶に行った。
― アンドリューのご両親、とても素敵な方々だったわ。
テニススクールを経営しているというお父様と、テニスコートで出会って恋に落ちたというお母様。
今でもラケットを握るという、おじい様にも挨拶することができた。
おじい様は、かぶっていたニット帽を取り、深々とお辞儀をして「こんな孫ですが、よろしくお願いします」と言ってくれた。
素敵な一家だったので、梨子は『やっぱりアンドリューに選ばれたことは幸運だったのだ』と感じた。
それからの梨子は、式の準備で怒涛の日々。
結婚式をしてほしい、という母親の梨絵の要望をかなえるためにも、奔走した。
最近は、アンドリューとデートはするものの、結婚に関する打ち合わせばかりになっている。
― 私とアンドリュー、本当にわかりあえているのかな…。
結婚を前に、梨子はつい不安になる。
しかしそろそろ紀香に結婚のことを報告しなくては、とLINEにメッセージを入力したのだった。
「送ろうかな?」と思ったそのときだった。
疲れのあまり、ぐにゃりと視界がゆがむ。
ゆがむ視界の中で、梨子はスマホを見る。そして、ハッとした。
『梨子:私、安藤ナシ子になります♡』
― なにこれ?私、“ナシ子”なんて打ったっけ?
歪んだ視界は、しばらくして正常に戻る。
何度か瞬きをしてからスマホの画面を見ると、メッセージはきちんと『安藤梨子になります♡』と入力されていた。
― 見間違いか…。“ナシ子”に見えたなんて、私、相当病んでるわ。
これ以上スマホをさわる気にもなれず、梨子は送信ボタンを押さずにLINEアプリを閉じる。
そして、翌日の仕事に支障が出ないよう、早めにベッドにもぐりこんだ。
◆
次の日の夕方、梨子は陸斗を誘ってバーのハッピーアワーに来ていた。
このところ、目の下にクマを作りながら仕事をしていた陸斗だったが、今日はいつになく晴れ晴れとした表情をしている。
「模試の成績が良かったんです。これで夢に一歩近付いた気がします」
陸斗がジントニックをダブルで飲みながら言うのを聞いて、梨子はふと考えた。
― 私も陸斗くんも大変な思いをしているけど、陸斗くんは夢のため。じゃあ、私は…何のため?
アンドリューとの結婚という目標は、確かに梨子を安心させた。
しかし、心の底から『幸せ!』と言えない自分がいるのだ。
「ねえ、夢のためにする苦労って幸せ?」
梨子が聞くと、当然のように陸斗が答える。
「幸せなはずないでしょう。でもその先の未来を考えて、乗り切るしかないじゃないですか」
しばらくして「勉強があるのでこれで」と陸斗は先にバーを出た。
彼を見送りながら、梨子は決意する。
― アンドリューと話し合わなくちゃ。苦労の先にある、幸せな未来のために!
◆
「安藤先輩、ちょっと結婚のことは置いておいて、私たち自身の事を話しません?」
週末、『ルグドゥノム ブション リヨネ』でランチデートをしていた梨子は、アンドリューに切り出した。
「私、自分のために生きてみたいんです。もちろん、結婚できるのは嬉しいんですけど、周りのお祭りムードに流されているだけな気もして」
不思議そうな顔をするアンドリューを前に、梨子は続けた。
「だから、結婚して落ち着いたら、やっぱり転職したいと思います。今度は、心の底から自分がやってみたい仕事につこうと思います」
はあ、とため息をつくとアンドリューはなだめるように言った。
「梨子ちゃん、こんな大事な時に…。僕のデートプランがつまらないから余計なことを考えちゃうのかな?」
「それは違います!」
梨子は慌てて否定する。
「ただ、結婚のことばかりで、私たち、お互いの事を全然話し合えていないと思うんです」
「そうかなあ。じゃあ、僕への質問をまとめてもらっていい?今度教えてよ」
― うーん、なんかかみ合わないなあ。
アンドリューが不機嫌になりかけるのを察し、梨子は話を中断してフォークとナイフを動かした。
◆
次の週末、八芳園のブライダルフェアに参加した。
その後に立ち寄った『スラッシュカフェ』で、アンドリューが突然言い出した。
「梨子ちゃん、この間はごめんね。よく考えたら、あれでしょ」
「え?」
「バレンタインデーのお返ししてなかったから、僕を困らせるようなことを言ったんだよね。はい、これ」
そう言いながら包みを取り出す。
成り行きで開けると、中から現れたのは、ショパールのマイ ハッピーハートのネックレス。
― こんなこと望んでない!モノで解決するつもり?どうして話し合いができないんだろう。
ローズゴールドとカーネリアンの美しい輝きを見ても、梨子の心によぎったのは話し合いを避けるアンドリューへの疑念だった。
「安藤先輩、どうして私と向き合ってくれないんですか?」
「えっ、向き合ってるじゃない。梨子ちゃん、こういうの好きでしょ」
確かに少し前の梨子なら単純に喜んでいただろう。
しかし、せっかく転職をして変わろうとしているのに、受け入れてくれないのだ。そんなアンドリューからの贈り物を、はいそうですかと受け取るわけにはいかなかった。
「見て見ぬふりをしてきましたが…聞いていいですか?先輩は、私の前向きな変化を応援してくれませんよね。
もしかして、私の『何もない』ところが好きなんですか?何もないままでいさせたいんですか?」
ふつふつと湧き上がった疑念が、言葉になって梨子の口からあふれ出す。
「それから、先輩が結婚を焦っているのは…先輩自身も私と同じように何もないからじゃないですか?
何もないことがバレて私に失望される前に、急ぎ足で入籍しようとしてませんか?」
そんなことないけど、とうつむいて前髪をいじるアンドリューを見据えて、梨子はもう一度訴えた。
「先輩は素敵な人です。良い会社に勤めているし、デートプランも完璧だし。
でも私は『ありのままの先輩』をもっと知りたい。何もなかったとしても、私は先輩の全部を知りたいんです」
自分の思いが初めて言葉になり、梨子は自分自身に驚いていた。
「そして、もし本当にお互いに何もないなら、変わっていきましょうよ。そうじゃないと…私たち、幸せになれないと思います」
「そんなこと急に言わないでよ」
アンドリューが静かに言った。
「今のままでいいじゃない。素敵な親がいて、仕事があって、婚約者の親にも大事にされて…100点満点の人生じゃないか。それをわざわざ自ら減点しようとするなんてもったいないよ」
テーブルに置かれたネックレスを見つめながら、アンドリューが話す。
「僕の中身が、空っぽに見えるって?確かにそうなのかもしれないね。でも、だったら、ないもの同士うまく行くとは思わないかな?何もないのって、そんなに悪いことかな?」
― ああ、もうダメだ。
「先輩は、私のために変わろうとは、思わないんですね」
梨子は失望し、うなだれた。
「ごめんなさい。別れてください。私、こんな気持ちのまま結婚できません」
あと少しで『アリ』になると思っていた自分の人生。
そのためにかろうじてつかんだ『結婚』という一本の糸を手放し、梨子は自分が再び『ナシ』の底なし沼に落ちていくのを感じた。
「そこまで言われたら僕も結婚できないよ。僕たち、ぴったりだと思ったのに残念だね」
アンドリューはそう言って席を立つと、「風が強いな。もう春一番が吹いてるのか」と独り言を言いながら、とぼとぼと去っていった。
その悲しげな姿に、梨子の胸は締め付けられたが、もう後には戻れないと自分も立ち上がる。
― さようなら、アンドリュー。
ビューっと吹き抜ける風を頬に感じながら、梨子は長い初恋が終わったのを感じた。
▶前回:憧れの先輩からプロポーズ。女が返答に困ったのは、彼の“ある思惑”が見えたからで…
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再びナシ子に戻った梨子。幸福な人生への道は開けるのか?