
活動開始から30年近いキャリアを積み重ね、今なお第一線で活動するバンド、BUMP OF CHICKEN。特に思春期に彼らの音楽と出会った人にとっては、心の柔らかい部分に刻み込まれた替えの利かない存在といえ、のちの邦楽シーンにも多大な影響を与えている。
この国のポップミュージックにとって、またポップカルチャーにとって、BUMPとはなんなのか。また未来人たちにはこのバンドがどんな存在だったと顧みられることになるのだろうか。
“理解者”を希求する心に応える歌詞
BUMP OF CHICKENについて語るのなら、まず歌詞の話から始めたい。思うにBUMP OF CHICKENの、藤原基央の歌詞は、3つの大きな特異性によって形作られているのではないだろうか。ニヒリズムとレトリックとストーリーテリングだ。
ありきたりで無反省な情緒、身の回りの社会を秩序立ったものにするための自己欺瞞、衰えてしまった情熱、そういった誰しもに心当たりのあるうしろ暗い部分を、刺すでも斬るでもなくただ言い当てて、じっとこっちを見ている。
狂ったふりが板について 拍手モンです 自己防衛/それ流行ってるわけ? 孤独主義 甘ったれの間で大ブレイク
「レム」
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こんな見方をしてくるのか、こんなふうに痛いところを突かれるのかと、自覚していなかった罪が暴かれるような痛烈なシニカルさ。そしてその刃は藤原基央自身の首元にも突きつけられている。本人も含めて触るもの皆傷つける。諸共誰ひとり逃れられないカルマを強烈に自覚させる。
また、そういったニヒリズムの根源にある観察眼は、人間のポジティブな機微・情動にも向けられる。
飛ぼうとしたって 羽なんか無いって 知ってしまった 夏の日/古い夢を一つ犠牲にして 大地に立っているって 気付いた日
「Stage of the ground」
孤独、感傷、自己嫌悪、厭世観といった内省的なテーマを表現する力に突出した歌詞は、リスナーからある種の信頼を勝ち取るに至った。ここまで克明に、生々しく表現できる人なら、“わかってる”はずだと。本当の惨めさを知っている人だと。
疑似恋愛の情動を消費行動として秩序立てることよってファンダムを形成するエンタメが数多く存在することは周知のとおりだ。BUMP OF CHICKENはある意味でその亜種、“理解者”を希求する気持ちに作品で応えつづけることでパラソーシャル関係を高度に構築してきたといえる。
“構文”を回避するレトリックの技術力
こうした鋭いニヒリズムを裏打ちするのは、類稀なレトリックの技術だ。
起きたら胸が痛かった 心とかじゃなく右側が
「モーターサイクル」
「胸が痛い」といえば心の痛み、失恋なのか罪悪感なのか、何かしらの挫折を想起させるもの、というような“構文”を、音楽市場は連綿と生み出してきた。ただ、自分たちの音楽に関してはそういうんじゃなくて、と、J-POP的な構文をドライにいなして、構文の先の表現をする。構文として成立しているようなもろもろのありふれた表現をかわすある種の“尖り”が、既存のJ-POPに親和性を感じないリスナーたちの心を掴んだ面も大いにあるように思われる。