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新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「タイガーマスクに対抗!全日本にジュニア王者」

アサ芸プラス

 1982年2月7日、ホテルニューオータニにおけるジャイアント馬場とアントニオ猪木のトップ会談によって、前年春からの引き抜き戦争は終結。

 引き抜き防止協定のガイドラインも決まって一安心の馬場は、同月17日からジャンボ鶴田、天龍源一郎を伴って3週間の長期アメリカ遠征に出発した。

 盟友ハーリー・レイスのお膝元のカンザス、フロリダ、ジョージア、ノースカロライナのNWAの黄金テリトリーを転戦、ラストのノースカロライナ州シャーロットでは、愛弟子の大仁田厚がチャボ・ゲレロを撃破してNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者になり、これは日本でもテレビ放映された。

 73年10月、16歳で馬場の付き人からスタートして8年5カ月‥‥大仁田は24歳にして全日本プロレスの新たなスターになったのだ。

 テレビ解説席の馬場に向かって「社長! 社長!」と泣き叫ぶ大仁田の姿は感動的だった。のちに本人は「試合後に感情が爆発して“社長!”って叫んじゃったよね。やっぱりプロレスには感情表現っていうのは不可欠だし、ナマの感情を吐き出したら、ああなっちゃったんだよ」と、苦笑していたものだ。

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 大仁田が喜びを爆発させたのは当然のこととして、全日本の選手がジュニア・ヘビー級のチャンピオンベルトを巻くというのは馬場の悲願でもあった。

 新日本プロレスでは78年3月に藤波辰巳(現・辰爾)がWWWFジュニア・ヘビー級王者として凱旋帰国して空前のドラゴン・ブームを巻き起こし、グラン浜田がメキシコからルチャ・リブレを持ち込んで華麗なジュニア・ヘビー級というジャンルを確立。80年4月のタイガーマスクの登場によって、さらにジュニアは注目されるようになった。

 一方、全日本の主流はヘビー級であり、これまでは74年12月5日の日大講堂で鶴田が減量してNWA世界ジュニア王者ケン・マンテルに挑戦しただけだった。

 タイガーマスク人気によってジュニア路線の確立に乗り出した馬場は、引き抜き戦争真っ最中の前年8月にNWAインター・ジュニア王者チャボ・ゲレロを引き抜いたものの、挑戦者になるべき日本人選手がいないため、ドス・カラスを挑戦させてお茶を濁していた。アメリカ修行中の大仁田、渕正信が成長するのを待っていたのである。そうした経緯があっての大仁田の王座奪取だった。

 その後、大仁田はNWAインター・ジュニア王者としてメキシコに遠征。一度はサングレ・チカナに王座を奪われるも奪回し、6月に1年9カ月ぶりに凱旋帰国。タイガーマスクに対抗するべく、“炎の稲妻”のニックネームでアイドルとして売り出された。

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