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大久保正陽先生へ/島田明宏

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大久保正陽先生へ/島田明宏

【島田明宏(作家)=コラム『熱視点』】

「気まぐれジョージ」と呼ばれたエリモジョージ、春秋グランプリを制したメジロパーマー、そして圧倒的な強さで三冠馬となったナリタブライアンなど、数々の名馬を育てた大久保正陽元調教師が、1月21日に亡くなった。87歳だった。

 私が初めて大久保先生と話したのは、1993年12月中旬、大久保先生が管理し、武豊騎手が騎乗したナリタチカラが香港国際カップに出走したときのことだった。

 当時、大久保先生は厩舎開業21年目の58歳。デビュー7年目、24歳だった武騎手は、この年の札幌記念でナリタチカラに騎乗し通算重賞50勝をマークしていた。

 今でこそ毎年日本が香港カップに出走しているが、1988年に「香港招待カップ」として創設されたこのレースが「香港国際カップ」と改称され、国際GIIIに昇格したのが、ナリタチカラが出走した1993年だった。これが日本馬による初の香港カップ参戦であり、1989年から海外遠征に出ていた武騎手にとって、海外のレースで日本馬に騎乗するのは、これが初めてのことだった。

 結果は14頭立ての7着だったが、そう大きく離されたわけではなかった。当時は1800mで、この馬には距離がひとハロン短かった。

 レース後、大久保先生や山路秀則オーナー、中学3年生だった武幸四郎調教師らがいるシャティン競馬場の関係者席に戻った武騎手が、「残念でしたが、これまで香港で走った日本馬では最高着順でしたね」と言うと、大久保先生も山路オーナーも少し表情を明るくして頷いた。

 同じ日、日本では朝日杯3歳ステークス(旧馬齢)が行われ、大久保先生が管理し、山路オーナーが所有するナリタブライアンが優勝した。

 その報せを受けた大久保先生が喜んでいたことや、私が「おめでとうございます」と言ったら笑顔で頷いたことは覚えているのだが、どんなふうに情報が伝えられたかは思い出せない。まだ個人で携帯電話を持つ人がほとんどいない時代だった。JRAの国際部の職員が、香港ジョッキークラブの事務局で国際電話を通じて結果を知り、それを大久保先生らに伝えた、といった感じだったのか。

 手元にある1993年の香港国際レースデーのプログラムを見ると、「成田力」の出た香港国際カップの発走時刻は午後3時55分となっている。時差で日本が1時間先を進んでいるので、朝日杯のほうが1時間以上早く終わっている。

 朝日杯の結果を知ったうえでナリタチカラのレースを見たのか、あとで知ったのかも思い出せない。ただ、大久保先生に「おめでとうございます」と言ったときは武騎手もいたので、それはレースのあとだったと思われる。

 考えてみれば、今から30年も前のことだ。私もまだ二十代で、大久保先生は今の私と同い年だった。いろいろなことを忘れてしまって当然だが、山路オーナーが、一緒にいた大企業の創業者の親族を「この人は何もしなくても株の配当だけで左うちわなんですよ」と紹介してくれて、そんな人も世の中にいるのか、と驚いたことはよく覚えている。

 その後、大久保先生には、レース後の囲み取材以外で何度か話を聞いたほか、2003年にネオユニヴァースが三冠に王手をかけたとき、先代の三冠馬の管理調教師としてどう見ているのか――を、スポーツ誌「Number」の取材でうかがった。ブライアンが三冠を獲った年、先生は体を壊して手術をし、函館で静養していたということを、そのとき初めて知った。

 次にじっくり話を聞いたのは、調教師を引退してから10年後、2016年の秋のことだった。これも「Number」の取材で、ご自宅にお邪魔し、ナリタブライアンについてインタビューした。先生は、調教師時代につけていたノートを片手に、丁寧にお話ししてくださった。といっても、ノートは正確な日時を確認するためのもので、そのときのブライアンの状態などについては、驚くほど鮮明に記憶されていた。

「武君には、いい時期に乗ってもらうことができなくて、申し訳なく思っているんです」

 先生はノートを閉じて、そう言った。

 武騎手が初めてブライアンに乗ったのは、ブライアンが三冠を獲った翌95年のことだった。ブライアンは、春、南井克巳騎手(当時)を背に阪神大賞典を7馬身差で圧勝したのち、右股関節炎を発症して休養に入った。同年の天皇賞・秋で的場均騎手(当時)を背に戦列に復帰するも、本調子にはほど遠く12着。武騎手との初コンビは次走のジャパンカップで、6着。つづく有馬記念も4着と、本来の走りを見せることはできなかった。翌年、96年の阪神大賞典で、田原成貴騎手(当時)のマヤノトップガンと600mに及ぶ壮絶な叩き合いを制して歴史的名勝負」と言われた。が、あのときも、「武豊」と「田原成貴」という名手の力があって素晴らしいレースにはなったものの、ブライアンの状態は本物ではなかったという。

 そう話した大久保先生に、私が、「武騎手は、初めてブライアンの騎乗依頼が来たときからすごく喜んで、乗るのを楽しみにしていました。ジャパンカップで負けたあとも、ジョッキールームで外国人騎手に『フェイバリット(1番人気)の素晴らしい馬に乗るんだ』と自慢できたと、嬉しそうに話していましたよ」と伝えたら、「そうなんですか」と驚いていた。

 先生は、こちらからの問いかけにはとても丁寧に応じてくれたが、自分からはそう多く話す人ではなかった。武騎手に、面と向かって「いいときに乗せてやれなくて、すまなかった」と言ったことは、どうやらなかったようだ。そもそも、調教師と騎手というのは、そういうものなのかもしれない。

「調教師・大久保正陽」がいなければ、私が見てきた競馬の面白さが、ずいぶん削がれていたことは間違いない。

 偉大な伯楽だった。

 大久保先生、ありがとうございました。安らかにお眠りください。

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