中華料理チェーン「日高屋」を手掛けるハイデイ日高がこの2月に創業50周年を迎える。同社は「創業50周年記念メニュー発表会」を開催し、3月1日から販売する創業50周年記念期間限定メニューを発表した。

昭和16年生まれでまもなく82歳という創業者の神田正会長は、50年の道のりを「あっという間。こんなに長くラーメンに携われるとは夢にも思わなかった」と語る。
埼玉県日高町(現・日高市)で誕生した神田会長は当時を「非常に貧乏。親父は中国に戦争に行って、傷痍軍人(戦争や紛争で負傷した軍人・軍属のこと)として日本に帰ってきて、あまり働けずに早く亡くなった。おふくろは近くのカントリークラブでゴルフのキャディーをしながら4人の子どもを育ててくれた」といい、自身も中学1~3年生の頃にはキャディーをして働いたことを明かした。
中学卒業後に就職したが「いろんな仕事をしたが何をやっても飽きちゃって務まらなかった」。転機は20歳の頃に友人から「ラーメン屋でもやらないか」と言われ、浦和の中華料理店で出前持ちとして働き出したこと。
「こんなことを言うとラーメンの神様に怒られちゃうけど、どうしてもラーメンをやりたかったわけではなく、たまたま行ったのがラーメン屋だった」と神田会長。独立してラーメン店をやろうと決意した理由は「自分で鍋を振っても餃子を作ってもそんなに難しくなかったこと。あとは、毎日朝仕入れに行くんですけど、ツケで買ってきた材料が夜には現金になっちゃう。子どもながらに “この商売はいいな” とピンときて、おかげさまでお金でそんなに苦しんだことはない」と振り返った。

広告の後にも続きます
一度は屋台のラーメン店で働いたが「変なお客さんがいっぱいきちゃって自分では経営しなかった」。その後小さな中華料理店で働いていた時に別の店に引き抜かれ、その店も潰れて家主から店をやらないかと打診があり、家主が保証人となって開業資金を借りて店を出した。最初はうまくいかず「日高にいた弟を呼んで出前を始めた。市役所に御用聞きに行って、土木課でチャーハン、市民課で餃子といった具合に注文を取って配っていた」。そのうち軌道に乗ってきたものの、隣のスナックの経営も任されて失敗。店鋪を売って借金を返済し、残ったお金を握りしめて大宮北銀座に飲みに行ったという。
「そこに間口が2間半で奥行が2間、5間(坪)の貸し店鋪があって、お店をやったらどんどんお客さんが入ってきてくれた。ひとりでできないので弟を呼んだらきてくれて、1年半くらいして前社長の高橋(均氏)もラーメンをやりたいと来てくれた」。この店が「日高屋」の前身「来来軒」となり、その後店鋪を増やすうちに独立話が勃発。「彼ら2人も自分でやると言い出したので “1人ずつラーメンを売るのも人生だけど、3人でやったら10店鋪くらいできるかもよ” と言った」とチェーン展開をスタートした。
当時は屋台が全盛の時代だったが「この屋台はいつかなくなるとみて、2人に屋台のお客さんを追っていこうと話した。屋台がどんどんなくなって、その代理をしようとどんどん駅前に出店した。どこに出しても成功して、格好良く言えば時代を先取りしたのかな」と神田会長。
「今までは自分の私利私欲でやってきたが、(年齢が)80過ぎると世の中を見る目が変わってきた。今は縁あって入社した社員を幸せにしたい、当社が出店することで地域の人に喜んでもらいたい、投資家の皆さんに “日高屋の株を買ってよかった” と言われるような会社の3つを目指していきたい。これからが本当の経営ですから、この『日高屋』は将来かなり大きくなる可能性を秘めていると思います」と力を込めた。
同社では中華鍋を使用したメニューの多い「来来軒」と、ラーメン中心の業態「ラーメン館」を合わせて(=ちゃんぽん)現在の主力業態「日高屋」が誕生したことに由来し、3月1日より「日高屋」全店で「日高ちゃんぽん」(税込690円)を発売。「日高屋」としてとんこつベースの魚介系スープを出すのは初めて。
