
1973年、春の全国高校野球。優勝候補の名門校が、一回戦で姿を消した――歴史的敗戦によって厳しい批判を浴びる中、打倒「昭和の怪物」を目指して奮闘した高校球児と名将に迫る、渾身のルポルタージュ。※本記事は、畑山公希氏の書籍『怪物退治の夏』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
【前回の記事を読む】27年に及ぶチーム作り…斎藤監督による「黒潮打線」の強みに迫る
2.名将「斎藤一之」の誕生と銚子商野球部
監督は、攻撃においてバントを非常に重視した。これも、「緻密さ」を武器にした、黒潮打線の強さだった。グランドの横で、マシンや打撃投手を相手に数人が、ひたすらバントの練習をし、2時間以上を要することもあったという。また、バントを重視した練習の象徴として、決まった場所にバントで転がせないと、すぐにランニングを「課せられる」という逸話も残っている。
また、なんといっても、この最強チームを作った要因として、斎藤監督の「情熱」は欠かせない。試合における勝ちにこだわる姿勢、才能ある選手を徹底的に鍛え上げる練習、選手にとって2年半しか「時間」のない中、必ず数人は下級生をベンチに入れて、翌年までに試合を経験させる方針。
ここについては、もちろん実力主義を貫いての方針であるが、結果として毎年2年生以下がベンチに入るという結果になっている。
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また、銚子市、銚子市民が町全体で名将と銚子商を盛り上げた。銚子市における有志が、才能ある選手の情報を収集、銚子商が甲子園出場を果たすと、寄付金を募る、など銚子市と銚子商野球部が一体となった時期が、1970年代の銚子商全盛期を支えた。
このように全盛期の銚子商には、周辺地域で力を持った選手が幾人も集まったが、同時に3年間で、自身の実力不足を知ったり、きつい練習に耐えきれなかったりした時、ある学年の半分以上の選手が野球部を去ったこともあった。
一例だと、この怪物と対峙した昭和48年当時の3年生のメンバーについては、入部した人数が50人だったのに対し、最後の夏を迎えた時には12人まで減少していた。このように、銚子商は「全国上位常連」の強豪校になったが、その基礎を築き上げた「OB会」の力も強かった。銚子商野球部のOB会はいわば「結束」が強いことで知られ、各地に支部が設けられている。
銚子商が甲子園出場をした場合、彼らが中心となって寄付を受け付け、良い選手がいれば、その情報を野球部へ報告などと、いわば「後方支援」を行っていた。「怪物」の様々な情報を仕入れて斎藤監督に提供していたという大きな役割を担っていたのは有名な話だ。
このように、土手クラブ、OB会と野球部を取り囲む人々が組織化を行い、野球部に強力なバックアップ体制を敷いていたことは、この時期の銚子商野球部を語る上で欠かせない事実だった。そして、公式戦となると、斎藤監督の「名将」と呼ばれる所以が表れてくる。
斎藤監督の武器である「勝負勘」である。昭和63~平成元年当時キャッチャーを務めていた畑山氏によると、例えばチームが、無死、1死の状態でランナー三塁に置くピンチになると、監督はキャッチャーに対して、カウントの組み立てを指示してくる。