
1月19日、第168回芥川賞が発表された。受賞作は、井戸川射子さんの「この世の喜びよ」、佐藤厚志さんの「荒地の家族」。井戸川さんは高校の国語教師、佐藤さんは書店員で、お二人とも作家以外の顔を持つ。
井戸川さんは授業で現代詩をどう教えようかと悩み、2016年に自ら詩の投稿を始めたという。2018年に発表した詩集『する、されるユートピア』で中原中也賞、2021年に最初の小説集『ここはとても速い川』で野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭だ。今回は、井戸川さんの『この世の喜びよ』(講談社)を紹介する。
「思い出すことは 世界に出会い直すこと」
本書は、「あなた」がかつての子育ての日々を思い出す「この世の喜びよ」、主婦がハウスメーカーの建売住宅にひとり体験宿泊する「マイホーム」、少年が父子連れのキャンプに叔父と参加した「キャンプ」を収録した小説集。ここでは、表題作「この世の喜び」を見ていこう。
少女に昔の自分を重ねる
近所のショッピングセンターの喪服売り場に、「あなた」は10数年勤めている。連綿と続けてきた点くらいでしか評価はされない。向かいにあるゲームセンターの店員たちは若く、店内も賑やかだ。「あなた」は喪服売り場から、ショッピングセンター内の様子を眺めたり、昔を思い出したりするのが習慣になっている。
娘たちが小さい頃、午前中は昼寝をしてもらうために公園かスーパーへ行き、午後は夜寝てもらうために公園かスーパーへ行った。時間をやり過ごすためにショッピングセンターに通った。その日々が今も目に浮かぶ。娘たちはもう社会人と大学生になった。
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最近、夕方から暗くなるまで少女が1人でフードコートの席に座っていることに「あなた」は気づいた。ある日、ジュースのコップを倒した少女にタオルを差し出したことをきっかけに、見かけたら声をかける関係になった。
少女は15歳で、家では1歳の弟の世話をさせられる。だから放課後、ギリギリまでここで過ごしているのだと言う。
「あなたは昔の自分に言ってあげるように、大変だ、と頷いた。娘たちの一歳の頃の記憶などあまりに遠く、こんなにうるさい場所と固い頭ではなかなか思い出せなかった。よく頑張ってる、とあなたはくり返した。」
ショッピングセンターの意味
舞台はショッピングセンター、主人公は喪服売り場の店員、という設定が新鮮だ。ショッピングセンターをよく利用する者としては親近感が湧くとともに、なぜそこを選んだのだろうかと思いながら読み始めた。
喪服売り場で働く「あなた」の視点から見えるもの、感じること、思い出すことが、何か大きな事件が起きることなく淡々と綴られている。何気ない出来事までつぶさに観察し、それをじっくりと言葉にしている。
文体やリズムが独特で、込められた意味をとりこぼさないように感覚を研ぎ澄ませることが求められる作品、という印象を受けた。解釈は読者によるところが大きいかもしれない。個人的には何度か読み返すうちに、ショッピングセンターには人生がつまっているということに思い至った。
乳幼児から高齢者までがいて、食料品、衣料品、フードコート、ゲームセンター、ペットショップ、喪服など、生きていくのに必要なものがひと通り揃い、ハロウィン、クリスマス……と四季を感じることもできる。そして、昔の「あなた」も今の「あなた」もいる。