全身に転移した末期がんと心不全のため、余命わずかと主治医から告げられ、残された時間を娘家族と同居の家で過ごすために退院した保田正さん(75)。そんな保田さんの、人生最期の願いは、故郷の海を眺めること、そして家族と温泉を楽しむことだった。
鼻には酸素チューブ、尿道にもチューブが入り、脚はひどくむくんで保田さんは立つことさえできない。
けれど、「2泊3日の熱海に出発ですよ」と声をかけられて洋服に着替えた瞬間、どんよりと寂しげだった表情が、キリッと引き締まった旅人の顔に変わった。
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東京都品川区の家を11時に出て、介護タクシーで品川駅へ。熱海駅まで40分弱の新幹線では駅弁をパクパクと平らげ、熱海駅からは再び介護タクシーで東伊豆の海辺へ。波打ち際まで車いすのまま移動すると、保田さんは感無量のまなざしでつぶやいた。
「ああ、帰ってきた……」
目の前には、6月の穏やかな太平洋が広がっていた。「海が好きなおやじだったから、自分も子供のころから海が好きで」と話す保田さんは、寄せ返す波音に包まれながら、少年時代の父との光景を思い出していたのだろうか──。