1982年新春シリーズは、新日本プロレスと全日本プロレスにとって、前年81年の引き抜き戦争の成果を競う舞台になった。
前年12月にスタン・ハンセンを引き抜いた全日本は、早々に2月4日の東京体育館におけるジャイアント馬場とスタン・ハンセンのPWFヘビー級戦を発表。これに対抗して新日本は同じ東京体育館で1週間前の1月28日に猪木vsブッチャーを行うと発表したのだ。
ブッチャーは前年6月24日に初めて新日本に参戦した後、2シリーズに参加したが、猪木vsブッチャーは温存されてきた。
それはブッチャーの「すぐに猪木と対戦するつもりはない。じっくりと時間をかけてファンに期待を持たせる。その上で本当に俺と猪木が戦うのは後楽園球場(※87年11月に閉場)クラスのビッグアリーナであるべきだ」というプランに新日本が乗ったからである。
だが、参加2シリーズ目の81年11月5日の蔵前国技館で、ブッチャーの人気が暴落する事件が起こった。
広告の後にも続きます
この日、ブッチャーはバッドニュース・アレンと組んでディック・マードック&ディノ・ブラボーと対戦するはずだったが、アレンが負傷のために出場不能となり、新間寿取締役営業本部長はリング上で代わりのカードとしてブッチャーvsマードックの一騎打ちを提案した。これも夢のカードだったが、ブッチャーはリング上でこれを頑なに拒否。ブッチャーに押し切られる形でブッチャーvsブラボーの一騎打ちが組まれ、超満員1万3000人の大観衆に「ブッチャーが逃げた」という印象を与えてしまったのだ。
ブッチャーvsブラボーはブラボーに声援が集中。4分3秒で反則負けになった、ブッチャーの新日本における商品価値はこの日になくなったと言ってもいいかもしれない。
この知らせを聞いた馬場は、ブッチャーを気の毒だと思ったという。ブッチャーとマードックは犬猿の仲で、それに気づいた馬場は75年12月の「オープン選手権」以降、2人を一緒に呼ぶことはなかったからだ。
ブッチャー人気の暴落によって遅きに失した感がある猪木vsブッチャーは、盛り上がりに欠けた。ブッチャーが新日本用に開発した山嵐流バックフリップを炸裂させたが、猪木の延髄切り3連発で勝負は決まったと思われた瞬間にアレンが乱入したため、14分52秒でブッチャーの反則負けの裁定に。続きを期待させるものがない消化不良の内容と結末だった。
そして1週間後の馬場vsハンセンに関しては「ハンセンは猪木が相手だったから持ち味を発揮できたが、動きの遅い馬場では魅力が半減するのでは?」「猪木と互角以上の戦いをやってきたハンセンに馬場が付いていけるわけがない」という声もあったが、馬場自身は親しい関係者に「この試合でベストバウトを獲ってやるよ」と語っていた。