
第二次世界大戦中の上海、戦後の日本。意図せずして諜報員として戦争に関わる青年と、それを取り巻く個性的な仲間たちの人生を躍動的に描いた長編歴史小説。花街で育った賢治は、歳の割にませた少年だった。昭和11年、明治大学の予科に進学した賢治は、広告研究会に所属し、華やかな時代の流れに乗り、広告の研究に情熱を燃やす。卒業後、サークルの機関誌をきっかけに就職した会社は外国向け宣伝誌の制作会社だったが、ある日上海への転勤を命じられる。当時の上海は、“洗練と猥雑”が同居した、まさに“混沌”とした街だった。第二次世界大戦の戦火が激しくなる中、ダンスホールや、バーで出会う人々との交流を通して、「魔都」と称される上海の裏側に、賢治は意図せずして足を踏み入れていく――。※本記事は、中丸眞治氏の小説『上海輪舞曲』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
第一章
桜町の家での生活にもすぐ慣れた。
父の本妻さん、名実共に新しく賢治の母になった人は、城の東にある工町の箪笥職人の娘で、丸髷を結った小柄な人で名前は「ナミさん」といった。この家に嫁いでしばらくは子どもが生まれないことからずいぶん肩身の狭い思いをしたらしい。舅、姑が相次いで亡くなってからは、店の奥を切り盛りしているしっかり者で、職人の娘らしく気取らない明るい女だった。
老舗の大店の奥さんだから、ツンとしたいやな女だったら困るなと思ったこともあったが、それは杞憂だった。賢治には母親というより、歳の離れた姉のように接してくれ、父との夫婦仲も悪そうには見えなかった。
もしかしたら、月々の若松町の母への手当とは別に、盆暮れの付け届けを賢治に持たせて届けさせるようになったのも、桜町の新しい母の、若松町への心遣いだったのかもしれない。この夫婦に子どもが授かっていれば俺は生まれてこなかったかもしれないなと思った。
広告の後にも続きます
甲府連隊の「軍旗祭」に行ったのもこの頃である。
新しい母が、
「お父さんがね、今年の軍旗祭に賢治さんが花富久の皆さんを誘って行ってきたらっておっしゃるの。もうお話はしてあるそうよ」
これでは「提案」ではなく「命令」だ、と思ったが、心遣いがありがたく、そうすることにした。
大正十一年の四月十五日に初めて開かれた甲府連隊の軍旗祭は、以後恒例となっていて、毎年桜が散り始めるこの時期に行われていた。日頃いかめしく近寄りがたい連隊も、この日ばかりは営庭を開放して、市民たちに見学させた。山梨県内は勿論、出身兵が多い神奈川県下からも兵隊の家族、親戚、友人などが大勢詰めかけた。甲府駅から連隊へ向かう道筋の朝日町や連隊前の通り沿いには土産などを売る店が並び、賑やかなお祭りだった。
今年も、営門に日の丸が掲揚され、営庭や中隊の中には万国旗が飾られ、兵隊たちの着る軍服も正装になって、肉親や友人との久しぶりの面会を楽しみにする雰囲気が連隊を覆っていた。