
イソップ物語では途中で油断して昼寝したウサギよりも、のろのろ歩き続けたカメが結局先にゴールに到着した。つまりコツコツと努力を続ける者が勝つという教訓だが、ここで言うカメは「コツコツと」努力してもどうにもならなかった足の遅いカメのような私自身である。そのカメ人間が英語という道を歩き続けた軌跡を、思いつくまま断片的に書き留めてみたのが「わが英語道」とでも言うべきこの回想録である。※本記事は、佐藤郁氏の書籍『カメの歩いた英語道―凡人の語学遍歴―』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。
大学入学試験
池袋の家には叔母が一人留守番をしていた。叔父は当然仕事で会社に出勤、従弟妹たちはそれぞれ学校へ行って不在だった。叔母に受験の結果(不合格)を報告し、どこかに就職しなければならないと告げた。叔母は明るい口調で
「それなら私の弟の店で働かない? 上野で記念メダルやバッジ、カップなどの製作・販売の商売をしているから」
と言った。当時、国立2期校の大学入試の発表は3月の最終週が普通であったので、それから就職口を探すのは容易なことではなかった。家庭の経済的事情で、私は高校卒業後すぐ就職しなければならなかった。外語大を受験するとき両親に
「落ちたら就職する」
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と宣言してしまったからである。東京の叔父さんに頼めば就職口もあるだろうなどと、3月の末になっても呑気に構えていたのである。私は、当面叔母の言うメダル店に住み込みで働くことにした。その店は上野駅の近くにある零細企業であった。店の裏手に小さな工場があって、住宅・店舗兼用の建物の一部としてつながっていた。
50代後半と思える通いの職人が一人と、その弟子で25歳ぐらいの住み込みの職工が一人、そして私。従業員はそれだけであった。社長は叔母の実弟、その奥さんも食事のまかないだけでなく、お店の経理などの手伝いをする「兼業主婦」であった。それは東京の下町によくある零細企業の形態であった。
上野時代
(1)住み込み店員
同じ田舎の高校の同窓生たちも東京都内を始め、千葉や横浜といった首都圏のあちこちの小企業に就職していたが、零細企業の工員や店員というのがほとんどで、昭和30~32年当時、田舎の高卒には大会社や大工場の社員・工員という就職口は少なかった。「あゝ上野駅」という流行歌で知られる集団就職華やかなりし時代より5~6年前のことであった。
われわれの時代は「集団」ではなく、個々の縁故頼りの就職であった。
私の仕事は店番と、店番しながらメダルやバッジを包装したり、それを郵便や鉄道小荷物で送る作業、そしてそれら商品を作る段階でのメッキ工場への依頼、メダル・バッジの「彫刻型」を作るための職人への注文など、下町の諸々の職人の家や零細工場への使い走りが主で、最初は自転車で、次第に慣れてきたらスクーターでの搬送などが主な仕事であった。