
スカパー!では1月、没後20年を迎える深作欣二監督を特集。代表作『仁義なき戦い』シリーズ5部作を含む10作品に加え、特番「映画監督 深作欣二特番 映画と戦い続けた男」と「新・監督は語る「深作欣二」」が放送される。今回放送される10作品は、深作の代名詞となった「やくざ映画」との出会いから決別までの約10年間に監督したもので、40年のキャリアの中で重要な位置を占める。
【映画サイト「スカパー!映画の空」とのコラボ記事】
戦後の繁栄から取り残された男の物語1953年に東映入社、1961年に監督昇進した深作は、14作目となる梅宮辰夫主演の『北海の暴れ竜』(1966年)でドル箱だったやくざ映画に初挑戦。だが、やくざ映画の名プロデューサー、俊藤浩滋から「やくざ映画の本当の作り方を教えてやる」と言われ、その下で次作『解散式』(1967年)を撮ることになる。本作で深作は、時代を任侠映画の定番である戦前ではなく、高度経済成長期の現代(当時)に設定。任侠映画の大スター、鶴田浩二演じる刑務所帰りの着流しやくざを、巨大コンビナート建設を巡る利権争いに巻き込むことで、お得意の「戦後の繁栄から取り残された男の物語」を作り上げた。丹波哲郎扮するライバルと着流しの2人がコンビナートをバックに対決する場面は象徴的だ。なお、「戦後」は深作作品共通のキーワードでもある。
『解散式』を最後に、東映との専属契約を解除した深作は、以後も俊藤の下でやくざ映画を学ぶ一方、他社の仕事もするようになり、松竹で『恐喝こそわが人生』(1968年)を撮る。これは、恐喝を生業とする若者たちの無軌道な青春を描いたクライムエンターテインメントだが、破滅型のストーリーはこの後も継承されていくこととなる。またこの作品は、当時20代で売り出し中だった松方弘樹との出会いにもなった。

同じく松竹が配給した『君が若者なら』(1970年)は、キャリアの中ではやや異色の青春映画ながら、深作の作家性が存分に発揮された掘り出し物だ。元々は正統派の青春映画『若者たち』(1967年)のヒットを受け、同じ路線で企画されたもの。ところが、監督を引き受けた深作は、『恐喝こそわが人生』、『日本暴力団 組長』(1969年)などで組んだ脚本家・長田紀生(ノンクレジット)の協力を得て、脚本を変更。集団就職で上京した若者たちが団結して起業を目指すが、やがて夢破れてバラバラになる「戦後の繁栄から取り残された男たちの物語」にしてしまった。演出的にも、ロケ撮影や手持ちカメラによるドキュメンタリータッチの映像を多用し、この時点ですでに『仁義なき戦い』に通じる深作調がほぼ確立されていることがわかる。
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こうしてキャリアを積み重ねた深作は、その集大成として1973年、日本映画史に残る金字塔『仁義なき戦い』を送り出す。
週刊誌に連載されていた広島やくざ戦争を巡るノンフィクションを原作に、笠原和夫が執筆した脚本を読んだプロデューサーの日下部五朗から「監督は誰がいいか」と相談を受けた俊藤は、かねてから買っていた深作を推薦する。話を聞いた深作も「直しはいらない。このホンでやらせてください」と快諾。こうして『現代やくざ 人斬り与太』(1972年)などで信頼を築き上げた菅原文太らなじみのキャストと共に持てる力を存分に発揮すると、原爆投下後の混乱した戦後広島を暴力で生き抜く男たちの躍動感あふれる群像劇を作り上げた。

これが、マンネリ化した「任侠路線」に飽きた観客の喝采を浴びて大ヒット。すぐさまシリーズ化が決定し、わずか1年半の間に『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)、『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年)、『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974年)、『仁義なき戦い 完結篇』(1974年)と全5作が製作された。
「任侠路線」に代わる新たな鉱脈を発見した東映は以後、実在の事件をヒントにした「実録やくざ映画」を連発。一躍ヒットメーカーとなった深作は、菅原、松方、梅宮ら『仁義なき戦い』以前は中堅クラスと見られていた俳優陣と共に活躍し、不動の地位を築き上げていく。

その波の中で誕生した『県警対組織暴力』(1975年)は、警察とやくざの癒着を描いた物語。警察官もやくざも、共に戦後の混乱を生き延びた人間で、表裏一体の存在だとする笠原和夫の脚本を得て、善悪の境界を問う深みのあるドラマに仕上がり、「実録路線の傑作」との呼び声も高い。
またこの時期、深作は実在のやくざ、石川力夫の半生を描いた『仁義の墓場』(1975年)で渡哲也とも出会っている。NHKの大河ドラマ『勝海舟』(1974年)の主演を病気で降板し、復帰作として並々ならぬ覚悟で本作に臨んだ渡は、途中で体調を崩しながらも、親分にも容赦なく斬りかかる狂犬のような石川を鬼気迫る佇まいで熱演。死んだ妻の遺骨を無言でかじるすさまじいシーンなど、異様な迫力に満ちた作品となった。実は渡は、当初『仁義なき戦い』の主演候補だったが、病気で実現しなかったため、念願の初顔合わせであった。
