
地方都市に住む小学生だったとき、友達たちと遊んでいて、弱って動けなくなっている「それ」を見つけたのだ。段ボール箱に入れて、小学校に運んで、いろんな先生にみせた。死にそうだから、助けて欲しい。校長室まで連れて行った。あの、アイラインをきれいに引く、紫色のスーツがよく似合う立派な女性。あの人が、どんな言葉を使ったか覚えていないけれど。わたしたちは、大人たちに追い払われて、何もできないうちに、「それ」は、硬直していった。私の家の庭に、みんなで、穴を掘った。じゃあ、うめよう。となったけど。わたしは、こわくてさわることができず。目が大きくて、とんでもなく勉強ができて、転校してきて、2年で転校していったあの子が、さわれない私たちを怒ったように見て、それを穴の底におき。黙って、みんなで土をかけた。わたしたちは、ずっと、そこだって、わかるように、目じるしになる石をおいた。ショックだった。大人たちが何もしないことや、自分が遺体を怖くてさわれなかったことではなく、「それ」は、「それ」を救おうとするわたしたちのことなど、意に介することなどなく、ただ、黙って、息をひきとったことだ。心の中に、ぽっかりと暗い穴があいたみたいだった。
胸が苦しくなり、その穴を感じずにいたい、忘れていたい、打ち消したい、大人になれば、感じずにいられなくなるのか、と、誰かに聞いた、ような気がする。と同時に、それを忘れてしまうのなら、自分は、おしまいだ。という真暗な気持ちを、この映画を見て、突然、思い出したのだ。
この映画の中では、ソウル郊外で、再開発のために取り壊される、老朽化した巨大な団地の敷地に、「それら」の大きなコロニーがある。それらは、意思疎通のできない異星人みたいなものだ。住人の一部は、その異星人に関心を持ち、食べ物を与える代わりに、幸せと呼びたいような、気持ちになっている。何に役立つわけでもなく、ただ、そこで、遊んだり、寝たり、食べたりしている。それが、人間の心を照らしてきた。しかし、住んでいた人間は、異星人たちとの別れをさみしがりながらも、次々と引っ越しをしていき、団地は、スラムと化していく。逆に、異星人は、廃墟になった団地の中で、ますます、のびのびと歩きまわっている。

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異星人たちは、人間の存在を強く求めているわけでもないし、ましてや、団地の敷地から、引っ越しさせてくれと言っているわけではない。その異星人には、人間のような知性や自意識はないように見える。だからといって、異星人たちのコロニーが、滅びていくのを黙って見ているのだとしたら。彼らは、人間じゃないから、重機や瓦礫が、異星人を押し潰したり、道に逃げ出して轢かれたり、逃げた先で飢えたりするとわかっているのに、何もしないとしたら。例えば、このわたしは、わたしたちは、いったい、なんなのだろう。このまま死なせてはいけない。そういう風に、考えて、動く人たちがいる。
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異星人たちを安全な場所に引っ越しさせようと必死に動く人間たちと、廃墟であることになど無頓着に、繰り広げられる、彼らの小宇宙。急な勾配を楽しげに競い合いながら登っていく、異星人の少年少女。ここで、育ち、ここで死ぬはずだった彼ら。それらを救おうと、あらゆる方法を試し、もがく、人間の集団との間に、意思の疎通も利害関係もない。

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孤立してしまう支援者の女性が、それでも諦めずに、毎日毎日、異星人たちに、ご飯をあげる様子。意思の疎通をはかれない異星人を助けようとする、自分はなんなのか。1匹残らず救うことなど不可能だ。なんのために。こんなに苦しいことをするのか。彼女たちは、自問することから逃れられない。でも、彼らを救おうとすることを最後まで、やめられない。その、なんともいえない表情。彼女たちは、それらを見捨てることで、心の中に、ぽっかりと穴があくのおそれる。
「それら」を、私たちは猫と呼ぶけれど。自分たちを人間と呼ぶ、わたしたち自身が、病み、傷み、いつかは、この世を去りゆく脆弱な異星人のコロニーであることが、最後の俯瞰のカットによって明らかになる。
もし、それらを軽く扱う社会であるのなら、わたしたち自身をも軽く扱う社会になるのではないか。少なくとも子供の頃には、わたしたちは、直感的に、そのことに、気づいていたのではなかったか。