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殷を滅ぼして天下をとった周王朝の基盤を築いた、強固な制度とは?【始皇帝の話】

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全盛期を誇った西周と、ゆるやかに衰退していった東周

周(しゅう)王朝は、「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれた呂尚(りょしょう)を軍師として、文王(ぶんおう)・武王(ぶおう)の二代にわたって殷(いん)と戦い、殷を滅ぼして天下をとった王朝です。周王朝は、都の置かれた場所と時代の違いによって西周(せいしゅう)と東周(とうしゅう)に分けて呼ばれ、西周の時代が先んじています。

西周は周王を頂点とし、その下に諸侯、卿(けい)、大夫(たいふ)、士(し)、庶人(しょじん)と続く身分制度によって成り立っていました。重要な地に王族や功臣を封じ、王朝の基盤を築いていきました。

しかし紀元前770年頃に西方の異民族、犬戎(けんじゅう)の侵略により王を殺害され、西周は滅亡。

群雄割拠する東周のはじまりは、春秋(しゅんじゅう)時代のはじまりでもありました。前7世紀中頃には周辺国の「楚(そ)」が王の称号を用いはじめ、「呉(ご)」と「越(えつ)」もこれに続きます。

やがて、前351年の「魏(ぎ)」をはじめとして、「斉(せい)」「趙(ちょう)」「秦(しん)」「燕(えん)」「韓(かん)」も王の称号を名乗りはじめ、東周はいつ滅亡してもおかしくない状況になります。

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どの国とも軍事同盟を結ばない主義により東周は辛(かろ)うじて地位を保っていましたが、最後の王がこのタブーを犯します。勢いある隣国、秦に敵対する合従(がっしょう)軍に参加したのです。以後、秦の猛攻にさらされるようになり、やがて周王朝は滅亡の道をたどります。

西周と東周:西周の都は現在の陝西(せんせい)省西安(せいあん)付近、東周の都は河南(こなん)省洛陽(らくよう)付近とされる。東周時代という呼称があまり使われないのは、この時代になると王権は弱体化し、政治的権力を伴わなかったため。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 始皇帝の話』
著者:渡邉義浩  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1962 年東京生まれ。筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。文学博士。現在、早稲田大学理事・文学学術院教授。大隈記念早稲田佐賀学園理事長。三国志学会事務局長。専門は古代中国思想史。主な著書・監修本に『眠れなくなるほど面白い 図解 三国志』(日本文芸社)、『始皇帝 中華統一の思想―「キングダム」で解く中国大陸の謎』(集英社新書)、『教養として学んでおきたい三国志』(マイナビ新書)などがある。

 
   

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