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ニッポンの土地「誰のものだったのか」大研究(3)「太閤検地」で“納税者”が明確に〈鎌倉〜江戸時代〉

アサ芸Biz

 鎌倉幕府の時代になると、土地に関しても、大きな変化が現れる。河合敦氏が言う。

「平安時代の荘官たちの中には、荘園を守るために武装して武士になるものが少なくありませんでした。彼らは、荘園領主である貴族や皇族の権威に頼っていたわけですが、東国に源頼朝の鎌倉幕府が成立すると、頼朝の家臣=御家人になり、頼朝からその土地の地頭という役職にしてもらい、土地の支配権を保証してもらいます。これを本領安堵といいます。また、活躍した御家人は褒美として、新たな荘園の地頭職に任じられました。これを新恩給与といいます」

 武光誠氏の鎌倉幕府の評価はこうだ。

「鎌倉幕府は、一番最下層の村落の小領主の権利を重んじて保護する、そして荘園ごとに領主が定めた法を守らせて荘園の内部のことには干渉しないという方針をとるのです。現代で言うなら、国の主権、内政には干渉しないで国々の上に国際連合を置いたように、当時としてはものすごくよくできた政権だと言えます。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも描かれているように、そんなきれい事ではないのが現実ですが、歴史の大きな流れの中で見てみると、権力者の勢力争いはあったけれど、比較的庶民の暮らしは安定していた時代です。中国から宋銭と呼ばれる貨幣が大量に日本に入ってきて、商業が盛んになり、そこで商品になるものを作れば儲かるというので、手工業も盛んになる。そうして日本の経済が大きく発展した、いい時代とも言えるのではと思います」

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 頼朝亡きあと、鎌倉時代に起こった大事件「承久の乱」のきっかけの一つになったかもしれないエピソードを河合氏が紹介してくれた。

「後鳥羽上皇の愛妾に亀菊という女性がいました。亀菊はもともとは遊女だったらしいのですが、後鳥羽上皇から荘園をもらったのです。ところがこの荘園の管理をしている地頭が荘園の税を払わないので、その地頭をクビにしろと鎌倉に言ったら、幕府はその命令を拒否したのです。朝廷の権威の復活を目指していた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒そうと、北条義時追討の命令を全国に出し、承久の乱が起こったのですが、亀菊の一件もその動機の一つになったのかもしれません(笑)」

 鎌倉幕府は、後醍醐天皇が呼びかけて、幕府側から寝返った足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉を攻めて、鎌倉幕府はあっけなく滅ぶことに。

 その後、後醍醐天皇による建武の新政がわずか2年余で終わり、足利尊氏が室町幕府を創設、南北朝時代へと時代は移る。

「室町幕府も鎌倉幕府と同じように全国に守護を置いて、国ごとに武士たちをまとめていましたが、南北朝時代には、敵の南朝方につく武士がいたので、尊氏は、半済令という命令を出します。これは、その国の荘園、公領の年貢の半分を守護が取っていいというもの。守護はそれを自分に従う武士たちにバラまきました。結果、守護から税を受け取る武士たちは、次第に守護の家臣のようになっていき、守護は強大化し、守護大名と呼ばれるようになります。

 南北朝を統一した3代将軍足利義満は強くなりすぎた守護を武力討伐するなどして、その勢力を弱めました。しかしその後、6代義教が殺され、さらに8代義政の跡継ぎ問題などが起こると、守護もまた互いに対立することになる。1467年から11年も続いた応仁の乱のように全国規模の内乱状態になって、結果的にはその勝敗も不明なまま、幕府の権威は失われ、守護大名も没落して、新たに武士たちが領地を争う戦国時代に突入していくのです」(河合氏)

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