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ニッポンの土地「誰のものだったのか」大研究(2)藤原道長の“荘園長者”説に疑問符〈奈良~平安時代〉

アサ芸Biz

 しかし、この班田収受の法が崩壊する原因もまたその税の仕組みにあった。河合敦氏の解説。

「租は現在で言えば住民(地方)税なので、住んでいる国に納めればよかったのです。しかし、男は租以外にも庸や調といった税がありました。庸は都で10日間の労役を提供する税。ただ、その代わりに麻布を7.9メートル差し出すと労役は免除されました。地域の特産物などを差し出すのが調です。庸と調は中央税なので、わざわざ都まで運ぶ義務がありました。それ以外にも男は、兵役を課される者がいたり、春にイネの種もみを強制的に貸し付け、秋に5割の利子をつけて返す出挙など、とんでもなく税が重かったのです。このため女だと偽って税を逃れる者もあったり(偽籍)、土地を捨てて逃亡する者も続出しました。

 そうして奈良時代の初期には、班田収授も崩れていく。そこで723年、新しい土地を開拓したら3代までその土地を所有していいとか、昔の荒れた田圃を耕したら1代所有を認めようという法を出します(三世一身の法)。それでも税収が増えないので、ついに墾田永年私財法(743年)で、開墾した土地は永久に所有を許すということになります。財力がある大寺院や貴族は盛んに人々を使って原野を開墾させたり、農民が開拓した土地を買い集めます。これが初期荘園で、荘園の始まりになります」

 武光誠氏は公地公民を変え、土地の私的所有を認めた背景を次のように説明する。

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「律令制の建前からすれば、全ての土地は天皇のものだったはずなのに、都で流行った疫病を鎮めるために東大寺なんて立派な寺院を建立し、東大寺自身に収入の管理をさせたほうが効率がいいというので、東大寺領の広大な荘園を北陸地方に作ったりしています。私有地を認めることによって国家も税収が増えるため、荘園開発を奨励していくことになったということです」

 初期荘園はその後、衰退し、別のタイプの荘園が登場してくるというのは河合氏だ。

「地方の有力者が自分たちで開拓した比較的小規模の荘園を持ちます。彼らを『開発領主』と呼び、その荘園は開発領主の子孫たちに継承されていきました。なお、荘園は中央から全国に派遣された国司が、税を徴収していきます。国司は今でいえば県知事のような役職で、中級貴族が任命されます。実際に現地に行く国司を『受領』、自分は都にいて代官(目代)を派遣する国司を『遙任』と呼びます。

 平安時代も半ばになると、なかなか税を払わない荘園が増加してきます。そこで朝廷は、受領の徴税権を強化したのです。しかも一定の税額を朝廷に納めれば、後は受領の懐に入れてよいことにしました。このため受領は、荘園から過酷な税の取り立てを行うようになります。そこで開発領主やその子孫たちは、自分の土地を国司よりも上級の貴族や皇族、大寺社に寄付して名義上の持主(荘園領主)になってもらい、自分たちは荘園の管理を行う荘官となりました。彼らは、荘園から一定の税を集めて荘園領主に納めることで、実質的に現地の荘園を支配しました。また、領主の威光を背景に税の免除を受けたり、受領の役人が荘園内に入れないようにしました(不輸・不入の権)。こうした形態の荘園を教科書では寄進地系荘園と呼んでいます」

 藤原氏が権勢を振るった時代には、摂関家に集中して寄進が進み、さらにその後の院政の時代になってくると、今度は上皇様(天皇の父親)へというふうに、変化していったという。

 摂関時代に「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることも なしと思へば」と得意の絶頂を歌った藤原道長だが、いったいどのくらいの荘園を抱えていたのだろうか。武光氏の答えは意外なものだった。

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