top_line

インストール不要ですぐ遊べる!
無料ゲームはここからプレイ

秦の始皇帝が中央に力を集める為の下地となった「商鞅の変法」という中国統一の礎となる大改革とは?【始皇帝の話】

ラブすぽ

中央に力を集めるために下地となった法家思想

実は、秦は始皇帝登場前から、強大な軍事力を持つ大きな国でした。中国統一の礎(いしずえ)を築いたとされるのが、商鞅(しょうおう)という人物です。

この時代、秦が滅ぼした6国では、氏族制度のもとで、各地域の諸侯たちが権力を高めていました。そして、地方の権力者たちによる分権制によって、王の権力が小さくなり、国をまとめることが困難でした。

一方、秦は中国西部の辺境地に誕生した新興国だったため、ほかの国々に比べて氏族制度がそこまで深くは根付いていませんでした。

そこに登場したのが商鞅です。当時の秦王の孝公(こうこう)の命を受けて、「商鞅の変法」という大改革を実行。これは、法家(ほうか)の「公正」と「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」をもとに考えられたもの。

法を基準とした平等なルールを次々に実行しました。始皇帝の改革は、これらの下地ができていたために受け入れられやすかったのです。

広告の後にも続きます

商鞅が秦に法家を導入したのと同時期に、楚(そ)では呉起(ごき) という人物が、同じように法家の導入を試みました。

しかし、楚は秦よりも氏族制度が強く根付いていたため、地方の権力者たちの反発にあい、呉起は楚の悼王(とうおう)の死後に襲われ、楚での法家の普及も止まりました。

呉起:魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)に仕えた後、 楚の悼王(とうおう)の宰相となり、楚国の強兵に努めた武将・兵法家。『呉子』は『孫子』と並び、有名である。法治主義にもとづく改革を図ったが失敗した。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 始皇帝の話』
著者:渡邉義浩  日本文芸社刊

  • 1
  • 2
 
   

ランキング(スポーツ)

ジャンル