
第二次世界大戦中の上海、戦後の日本。意図せずして諜報員として戦争に関わる青年と、それを取り巻く個性的な仲間たちの人生を躍動的に描いた長編歴史小説。花街で育った賢治は、歳の割にませた少年だった。昭和11年、明治大学の予科に進学した賢治は、広告研究会に所属し、華やかな時代の流れに乗り、広告の研究に情熱を燃やす。卒業後、サークルの機関誌をきっかけに就職した会社は外国向け宣伝誌の制作会社だったが、ある日上海への転勤を命じられる。当時の上海は、“洗練と猥雑”が同居した、まさに“混沌”とした街だった。第二次世界大戦の戦火が激しくなる中、ダンスホールや、バーで出会う人々との交流を通して、「魔都」と称される上海の裏側に、賢治は意図せずして足を踏み入れていく――。※本記事は、中丸眞治氏の小説『上海輪舞曲』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。
第一章
最初に行ったのは踊りのお師匠さんの家だった。
このお師匠さんは賢治が子どもの頃、独身だが子ども好きの人で、逆立ち歩きが得意で子どもが行くと必ずやって見せてくれた。
「おじちゃん、逆立ちして!」と言うと、
「あら、坊や。おじちゃんじゃなくってよ、お師匠さんとお呼び」
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下駄のような四角い顔の五尺に満たない小柄な身体で、シナを作って女言葉を使う。
玄関先の表札には「花柳弦兵衛」とある。
賢治は「おししょさん、おししょさん、おしょさん」と頭の中で唱えながら、確かお寺にも「おしょさん」は居るなと思った。
久しぶりに訪ねたお師匠さんの家は十年前と変わっていなかった。
半ドンで授業が終わった土曜日の午後、
「こんにちは、花富久の薬袋です」と格子戸を開けて、ことさら大きな声で挨拶すると、