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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【28】引き抜き戦争の煽りを食った国際プロレス崩壊

アサ芸Biz

 新日本プロレスアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜けば、全日本プロレスタイガー・ジェット・シンを引き抜き、トップ外国人ヒールが入れ替わった1981年、両団体の戦争は激化の一途を辿った。

 あくまでもルールを破った新日本への報復という姿勢の馬場は「今回のブッチャーの件は喧嘩を売られたようなものだから、ウチも黙って引き下がるわけにはいかん。本当の勝負はこれからだよ」と宣言。

 8月20日開幕の「スーパー・アイドル・シリーズ」にはNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者のチャボ・ゲレロを参加させた。

 チャボが保持するNWAインター・ジュニア王座は、新日本がWWFジュニア王者の藤波辰爾にNWAのベルトを巻かせようと、80年2月にNWAの新日本派プロモーターと新設。初代王者として来日したスティーブ・カーンから藤波が奪取し、その後はマイク・グラハム、木村健吾(現・健悟)、チャボへと移動した。

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 この年の4月、新日本でデビューしたタイガーマスク(佐山聡)が大人気になったため、馬場は全日本でもジュニア・ヘビー級を充実させるためにチャボを引き抜き、いずれは新日本のために生まれたNWAインター・ジュニアのベルトをアメリカ武者修行中の大仁田厚、渕正信のいずれかに獲らせるというのが馬場の構想だった。

 また、メキシコから来日したアニバルも新日本が提携するメキシコUWAのトップ選手。さらにメキシコからはエル・ソリタリオも引き抜いて、メキシコシティとロサンゼルスで黄金カードだったミル・マスカラスvsソリタリオを日本で再現しようとしたが、これは新日本がストップ。

 新日本は8月21日開幕の「ブラディ・ファイト・シリーズ」にソリタリオを呼び、さらに新日本はザ・ファンクスの親友で全日本にこの年の2月まで14回の来日を果たしていたディック・マードックをスタン・ハンセンのタッグパートナーにするため引き抜いて参加させた。

 こうした仁義なき引き抜き戦争の煽りを食ったのは国際プロレスだ。この年の3月末で東京12チャンネル(現テレビ東京)のレギュラー中継が打ち切りになり、フジテレビにアプローチしたが、引き抜き戦争が勃発したことで「プロレスはイメージが悪い」と、いい線まで行っていたにもかかわらず交渉を打ち切られてしまったという。

 国際は78年末から全日本との関係を打ち切って新日本との対抗戦路線に切り替えたが、81年に入ると両団体間の交流は自然消滅の形になってしまった。国際の選手の中に「新日本には上がりたくない」という選手がいたことも一因で、アントニオ猪木は「そんな団体は信用できない。潰れるものは潰れればいい」と、腹心の新間寿取締役営業本部長に言ったという。

 猪木の思惑を知った吉原功社長は馬場に「全選手を預かってほしい」と頼んだが、78年末に裏切られたと感じていた馬場は、救いの手を差し伸べなかった。

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