こういうキャラクターは『鎌倉殿の13人』では珍しい。
第44回の終盤、義時は政子(小池栄子)に対して「私たちは、自分のしてきたことを背負って生きるしかないのです」と言う。「私たち? 決めてきたのはあなたでしょ」と、政子は反論するのだが、義時の主語は常に「私たち」で、鎌倉殿と北条家を中心とした坂東武者のためを思って、行動してきた。
それは他の人々も同様で、程度の差こそあれ、『鎌倉殿の13人』の登場人物は「私たち」という言葉に象徴されるコミュニティを背負って行動しており、だからこそ、家族や仲間をとても大事にしている。
それがよくわかるのが「お前の気持ちは痛いほどわかる」と言って、実朝が公暁に謝罪をする場面だ。
「あなたに私の気持ちなど分かるはずがない」と実朝に反論した公暁は「幼いころから、周りから持ち上げられ、何不自由なく暮らしてきたあなたに、志半ばで殺された父や、日陰でひっそりと生きてきた母の悔しさがわかるはずがない」と怒りをぶつける。
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ここで公暁は、「父と母の無念」と、自分の気持ちを同じものとして、実朝にぶつけている。
「私」よりも「私たち」を優先して家制度を第一に考える登場人物の振る舞いを、美徳と受け取るか、個の欠落と捉えるかで、『鎌倉殿の13人』の印象は大きく変わる。筆者は個の欠落の方が気になってしまう。そのため、ドラマとして楽しみながらも、各登場人物の振る舞いに居心地の悪さを感じていた。
そんな中、仲章は例外的に“私”が主語の人間で、感情移入できる存在だ。ただ、興味深いのは、政子から見ると、義時もまた「私たちのため」を言い訳にして「私」のやりたいことをやっている人間に見えていることだ。
その意味で仲章と義時はよく似ている。義時が仲章に強い苛立ちを見せたのは同族嫌悪であり、仲章の振る舞いに、自分の内側に抱えている醜い部分を投影しているからだろう。
つまり仲章は義時にとって、ユング心理学における影(シャドウ)である。「私たち」という主語を用いながら、実は「私」のことしか考えていない義時の抑圧された内面を映す鏡として、仲章は現れたのだ。
(成馬零一)