スマートウォッチが全盛の今、あえてアナログな高級時計を身につける男たちがいる。
世に言う、富裕層と呼ばれる高ステータスな男たちだ。
ときに権力を誇示するため、ときに資産性を見込んで、ときに芸術作品として、彼らは時計を愛でる。
ハイスペックな男にとって時計は、価値観や生き様を表す重要なアイテムなのだ。
この物語は、高級時計を持つ様々な男たちの人生譚である。
▶前回:シャンパン飲み放題のデートで、29歳CAの態度に男が幻滅。彼女が犯した失敗とは
Vol.8 IT企業経営者・亮(32歳)を変えた出会い
「今日は5キロで終了っと」
「アップルウォッチ」で心拍数を確認する。
青山にある会員制高級ジムのランニングマシーンで汗を流すことが、亮の日課だ。
亮は学生の頃にWEBマーケティングの会社を起業。その後、業績を伸ばし、次々と新しいサブスクサービスなどをローンチし、今や若手IT起業家として有名人になっていた。
― さて、今夜は婚活アプリで出会った子とデート。プロフィールチェックしておこう。
亮は、生活全般において「合理的であること」を目指していた。
たとえば、ファッションは考える時間を減らすために黒のジャケットしか着ない、食事も何時に何を食べるなど規則化し、生活の一定化を図っていた。
そんな亮の口癖は「恋愛は非合理的」だ。
それゆえ、自己紹介や感情の駆け引きが無駄だという考えから、婚活アプリを活用し、条件の合う女性のみに会うという方法で結婚相手を探していた。
今夜はアプリで条件の合った女性との約束があったため、急いでシャワーを浴び、手慣れた様子でUberでアルファードのタクシーを予約した。
ブーブーッ
到着を知らせる通知がアップルウォッチから鳴った。亮は、アップルウォッチを、左手から外すと、「パテック フィリップ・ノーチラス」を着ける。
亮は、合理性を考えてシーンによって時計を替えるようにしていた。仕事や大切な人の前ではノーチラスを着け、普段の生活ではアップルウォッチを着ける。
タクシーに乗るためにジムの廊下を歩いていると、女子更衣室から、突然現れた女性とぶつかった。
「きゃあっ!!!」
「す、すみません!急いでたもので……。ケガはないですか?」
「大丈夫です。びっくりしただけですから」
亮は、転倒した女性に手を差し出し、立ち上がるのを手助けする。
そして、女性の顔を間近に見て、亮はハッとした。
― 綺麗な女性だな。
シャープなフェイスライン、潤いのあるブラウンの瞳、ほんのりとピンクな唇。彼女のパーツひとつひとつに見惚れ、亮の視線は釘付けになった。
そんな亮を、女性が不思議そうに見上げる。
ふと我に返った亮は、女性が立ち上がるのをサポートしながら、名刺を渡した。
「すみません。本当に急いでるものですから。なにかあったらご連絡ください、それでは」
亮は女性のことが気になりながらも、到着したタクシーに乗車した。
タクシーの窓から外を眺めていると、あるカップルの姿が目に留まった。
20代前半の若いカップルだ。ふたりは、青山通りを仲睦まじく手を繋いで歩いていた。
― 恋愛に金と時間を割くなんて、無駄なことしてるな。
学生時代から恋愛よりも、仕事に打ち込んできた亮。
そんな彼には恋愛中心で動く人を、どこか冷めた目で見るところがあった。
将来を考えて常に合理的な判断をしてきたからこそ、若くして成功を掴み取ったという自負が亮にはあったからだ。
ふと、ノーチラスを見ると夜の7時をさしていた。
◆
一目惚れした女性との再会
マッチングアプリでは、なかなかよい出会いがなく1ヶ月が過ぎた。
亮の婚活は進んでいないが、仕事の方は絶好調だった。
今日は、亮の会社の新サービスの発表が行われる勝負の日。
「アップルウォッチかノーチラスか…。取材もあるし、今日はノーチラスで行こう!」
亮は、渋谷のホールで行われる若手のIT起業家が集まるイベント会場に向かった。
新規事業についてのプレゼンは拍手喝采で無事終了した。
― 今日はこの時計にして、よかった。
亮はノーチラスを見ながら、この時計を買ったときのことを思い出していた。
「パテック フィリップ・ノーチラス」は正規店に行けば、誰でも買えるという類の時計ではない。
そのため、並行輸入品や中古で何倍もの値段で購入するのが一般的になるなど、入手が難しい時計だ。
5年前、亮はこの憧れの時計を手に入れるために、正規販売店で他の高級時計をこれでもかと購入し、実績を積み顧客となった。
その甲斐もあり、オフレコで“1本入荷しました”と声がかかり、やっとの思いで手にすることができた。
― いまの俺には、入手困難なものを手に入れる力がある。
亮は自分が恋愛よりも仕事に尽力してきたことを誇りに思っていた。
そんなことを考えていると、見覚えのある女性が亮の目の前を横切った。
― あれ?あの女性、どっかで見たな。もしかして…。
顔を見て確信した亮は、プレゼンが成功した勢いで、彼女に近寄り、声をかけた。
「あの…覚えていらっしゃいますか?青山のジムで、ぶつかった…。改めまして、菅原亮と申します。あの時は大変失礼しました」
「あっ!あの時の!プレゼン素晴らしかったです。私、林理恵です。まさか、同じ業界だったなんて」
理恵の名刺を受け取ると、大手IT企業の広報と書いてあった。
― 平日の昼間に高級ジムで出会ったから、何の職業かと思ってたが同業だったか。
「いきなりですが…もしよかったら、今晩食事でも行きませんか?先日のお詫びをさせてください」
理恵のことが気になっていた亮は、食事に誘う。
「いいですね。でも私、仕事が何時に終わるか…」
「待ちますよ。19時に店を予約しておきます。気が向いたら来てください」
亮は、理恵のLINEの連絡先を自然にゲットすることに成功し、ほくそ笑んだ。
神泉の隠れ家的なレストラン『チニャーレエノテカ』のカウンターで、亮はビールを飲んで理恵を待っている。
だが、約束の19時を過ぎても彼女は姿を見せなかった。
― まぁ、いきなりだったから、来なくてもしょうがないか。
19時半を過ぎたころ、理恵が、重そうな鞄を抱えて走って現れた。
「遅くなってごめんなさい!」
「来てくれたんですね。もう来ないかと……」
「資料づくりに時間がかかってしまって。でも、せっかくだからお仕事の話も聞きたかったので、頑張りました」
はにかみながら、懸命に話す理恵。
― 真面目なんだな。見た目は華やかだけど、案外しっかりしてそう。
ふたりは、ビールで乾杯をする。その後は、業界の話で盛り上がった。
段々と打ち解けてきたところで、理恵は「将来独立したい」と亮に自分の夢を話した。
理恵にできる男をアピールできるチャンスだと捉えた亮は、意気揚々と経営者としてのアドバイスをする。
「ところで、理恵さんってモテそうですよね、美人だし」
「そんなこと全然ないです。仕事ばっかりしてたら、恋人なしの28歳になっちゃいました」
― 28歳といえばそろそろ結婚適齢期。恋愛じゃなく、独立志向が強い子って新鮮だな。
「亮さんこそ、モテそう」
「僕は、恋愛にそんなに興味ないんです。でも結婚はしたいと思っているので…。堅実な出会いを求めてるので、審査のある婚活アプリを使ってます」
亮は笑いながら答えた。
「私、アプリってやったことないんですよね」
「効率的ですよ。いま自然な出会いってほぼないし。恋愛とかにリソース割くのってコスパが悪い気がしてしまうんですよね。条件が合う人を効率よく見つけたくて」
理恵は一瞬思案したあと、納得のいかない表情を浮かべながら、亮をまっすぐ見て言った。
「でも恋愛って、そもそも効率とは真逆ですよね?
論理的に進められるビジネスとは違って、恋愛は感情が揺れ動かないと始まらない。恋愛で感じられる喜びや経験って、人生において価値あるものだと思うな」
― 恋愛は、効率とは真逆か…。
理恵の言葉に亮はハッとする。
確かに、数多くの女性とアプリで出会ってきたが、感情が揺れ動くような女性にはまだ会えていない。
― 今、目の前に感情が動く女性がいる。
単純だが重大な事実に気づいた亮は、酒の勢いもあり勝負をかけた。
「もっと理恵さんと話したいな。よかったら、このあと、うちで軽く飲みませんか?ルーフバルコニーがあるんです。そこで飲むワインが格別なんですよ」
「魅力的なお誘いだけど。会ったばかりですし、今日は、遠慮しておきます」
― あぁ、調子に乗りすぎたのかな…。
グラスに残ったビールを一気に飲み、亮は会計をすませた。
◆
1ヶ月後。
「よしっ、いい感じ」
理恵との食事のあと、亮は恋愛に対して無知であったことを自覚した。
そして「理恵にもう一度デートしてほしい」と何度か誘った。断られ続けていたが、ついに理恵がOKしてくれたのだ。
亮は、気合を入れるためにノーチラスを左腕にはめ、いつもの黒のジャケットではなく、新調したスーツを着る。
1976年に誕生した時計「ノーチラス」は、潜水艦「ノーチラス号」の船窓をモチーフとして制作された時計だ。
当時の高級時計は、ゴールドを使った華美なドレスウォッチがもてはやされていた。
そんな時代にステンレスで仕上げた“超高級ステンレスウォッチ”として新たな概念を作り出し、時計界を牽引してきた一本を亮は大事にしていた。
高級なのに防水性も高いなど「実用性重視」である部分が亮の価値観とも一致していたからだ。
亮は、理恵の会社の近くまでタクシーで迎えに行く。
向かう車中、亮はタクシーの車窓から渋谷を歩く若いカップルを眺めていた。
つい1ヶ月前までは、冷めた目でカップルを見ていたが、温かい目で彼らを見る自分に気づいた。
― 理恵とあんなふうに歩きたいな。効率や合理性ばかりを追い求めると、人生において何か大切なものを逃すのかもしれないな。
亮が、左手に着けた「パテック フィリップ・ノーチラス」を見ると長針が丁度、夜7時を指した。
理恵との出会いにより、自分が変わっていくことを亮は感じていた。
そしてドキドキしながら、理恵の元へと向かった。
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