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【コラム 元担当記者が見た村田兆治投手】 最後まで不器用に、人生の幕閉じた“マサカリ” サンデー兆治で一世風靡、元ロッテ村田兆治さん

OVO

 プロ野球チームのロッテで通算215勝を挙げ、野球殿堂入りも果たしている村田兆治さんが11月11日、東京都世田谷区の自宅で亡くなった。72歳だった。出火した二階で発見され、焼死というより一酸化炭素中毒だったとか。タバコを持ったまま座った姿で発見されたとの報道もあり、どうも状況がはっきりしない。

 9月下旬に羽田空港の保安検査場で何度も検査を繰り返えすトラブルがあり、女性検査員の肩を押す「暴行容疑」で逮捕されていた。報道では携帯端末を持ったままで検査を受けていたとされており、これも不可解な話だった。

 1985年にスタートした共同通信運動部の大型企画「夕刊スポーツワイド」初回のテーマとして、ひじの手術(トミー・ジョン手術)から復活を目指す村田さんを追い、1月下旬に投手陣の自主トレーニング取材で台湾・高雄入りした。自主トレ前には自宅で奥様の淑子さんともども、じっくり話を聞く機会があり、高雄は稲尾監督との「絡み写真」撮影が主目的だった。

 当時の日本の野球では「肘にメスを入れたら再起は無理」が常識だったが、日本中であらゆる治療を受け、滝に打たれる行も試みた末、わらにも縋る思いで渡米。元キャセイパシフィック航空勤務だった淑子さんが、通訳など身の回り全てを仕切って、厳しいリハビリでも夫を支えた。当時の淑子さんの村田兆治評が「昭和生まれの明治男」だった。

 日曜日ごとの登板で開幕11連勝を飾り、「サンデー兆治」の名はスポーツ界を超えた話題になった。再び世田谷のお宅を訪ね、球場での練習とは別の「サンデー兆治の1週間」を取材した。登板翌日は胃腸に負担を掛けない軽めの食事で、その後は体調に合わせて野菜や肉もしっかり取るメニュー。淑子さんが細心の注意を払う手料理だった。

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 現役引退から2年後の1992年山形国体前、国体開催地で開かれる「体力医学会」の事務局長を務めていた筆者の同級生から、学会の講演に村田さんをお願いしたいと仲介を頼まれた。その時の学会のテーマが「リハビリ」。日本では前例のないプロ選手の「トミー・ジョン手術」の成功者で、200勝目を記録したのが地元山形の球場だったという縁もある「サンデー兆治」は、うってつけの存在だった。バブル崩壊後ではあったが、有名どころで講演料100万円が珍しくない時代。旧知の球場ウグイス嬢がマネジャーを務めていたので、頼み込んでなんとか半額にしてもらったところ、そのお礼にと村田夫妻だけでなく、マネジャーともども天童市の高級旅館に招かれる思い掛けない運びとなった。

 開業したばかりの山形新幹線で村田夫妻と現地入り。もともと口下手だった村田さんだが、自分は一流の野球人なのだからちゃんとした内容をという気持ちが強く、話し始めると支離滅裂になることが少なくなかった。講演経験を積んでいたとはいえ、心配していた通り退屈な展開だった。ところが、突然に上着を脱いでステージに立った村田さんが「マサカリ投法」を実演してみせると、お年寄りから子どもまで多くの聴衆で埋まっていた会場がどっと沸いた。当時の山形県が売り出したばかりの地元米「どまんなか」のブランド名を連呼しながら、ステージ上で豪快な投球フォームを披露。汗だくになりながら、あの独特のパフォーマンスを見せた姿がいまも目に焼き付いている。学会関係者が大喜びしてくれたのは言うまでもない。

 現役引退後もストイックにトレーニングを続け、60歳過ぎでも130km以上の速球を投げたことはよく知られている。ダイエー(現ソフトバンク)の投手コーチに就任した1995年、高知キャンプを訪れた際に久々に会ったら「若いピッチャーが真っすぐで勝負しないんだよ」と嘆いていた。当時は40歳代後半で、現役並みの140km台のボールを投げていた時代。「兆治さんのようなわけにはいかないよ」。1歳年長の先輩をなだめるのに苦労したが、心配していたようにコーチ歴は短かった。

 ユニフォームを脱いでからは講演活動や、少年野球の普及へと東奔西走。特に全国の離島の子どもたちに野球を広めたいと力を入れた「離島甲子園」はライフワークにもなった。ただ、引退後もマイペースの村田さんには2歳年上の淑子さんも手を焼いている様子だった。ご両親の介護を理由に10年以上前から別居していると聞いて、なぜか納得した。

 人付き合いがいい方ではなく、大きな世田谷の邸宅での独居生活。羽田での事件は顛末がはっきりしないが、意固地になってつい手が出たというのは想像できる。大きな騒ぎになったことを、生真面目な村田さんは大変に気にしていたそうだ。死亡につながった自宅出火の原因はいまも不明で、過失なのかどうかも明らかでないといわれている。

 僕がロッテを担当したのは稲尾監督時代の1984~86年。攻撃の核だった落合博満選手とともに、投手陣の中心だった村田兆治という個性派に出会えたのは記者生活の宝だ。そんなレジェンドが寂しい晩年、不可解な死を迎えたことをまだ受け止め切れていない。最後まで不器用に人生の幕を閉じた野球人を、静かに偲んでいるところだ。合掌。

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