『20代のうちに結婚したほうがいい』
一昔前の価値観と言われようとも、そう考える女性も少なくはない。
そんな焦りにとりつかれ、30歳目前でスピード婚をした広告デザイナー・穂波。
しかし穂波は、すぐに後悔することになる。
「なんで私、焦ってプロポーズをうけてしまったんだろう」
私にふさわしい男は、この人じゃなかった――。
◆これまでのあらすじ
颯斗の憔悴ぶりに付け入って、彼のマンションに押しかけた穂波。狙い通りにいい雰囲気になり、初めて颯斗と寝た。しかし事後、冷静になった颯斗から「付き合う気もないのに寝たりしてごめん」と言われてしまう。
▶前回:「ごめん、チャペルには1人で行ってくれる?」そう夫に告げた女は、式場見学の最中に別の男に電話して…
パンケーキから立ちのぼっていた柔らかな湯気はもはや消え、表面がカサカサと乾き始めている。
「ごめん穂波。つい衝動的になって…本当にごめん」
さきほどから颯斗は、謝罪の言葉を、呪文のように繰り返していた。
「わかったから。もういいから」
穂波は、目の前のお茶を一口飲んで、ようやく立ち上がる。
「もういい」とは言ったが、正直、許せない。
― 私と寝たにもかかわらず、惚れないなんて、ホントどういうこと?
穂波にとって「手を出された」こと自体は、あまり問題ではなかった。
なにより許しがたいのは、自分の美しい体を知っても、颯斗が落ちてくれないことだった。
バッグを持ち、髪を振り乱して廊下をズカズカと進む。颯斗は、玄関まで追ってきた。
「穂波…本当に、本当にごめん」
無視してパンプスに足を滑り込ませていると、彼は突然、意を決したように言った。
「あのさ…穂波!」
「なに?」
「あのさ…俺と寝たってこと、佐奈には言わないでくれる?この通りだ」
「…なにそれ」
ドアにかけていた手が思わず震えた。
敗北感と屈辱感で、涙が溢れてくる。じっとり濡れた顔で颯斗を見上げ、こう言った。
「わかったよ。佐奈とお幸せに!」
ドアをバタンと締める。
― なによ。佐奈に「颯斗と寝た」なんて、言えるわけないでしょう?
なぜなら“寝たけれど、颯斗はまだ佐奈に夢中”という事実は、穂波が女として、佐奈に完敗していることを意味するからだ。
佐奈に、声高らかにアピールできるわけがない。
心底うんざりしてマンションの外に出ると、もう夜だった。赤坂通り沿いのカフェの入り口で、イルミネーションが光っている。
手を上げて、タクシーを止めた。
自宅の玄関ドアを開けると、一樹が腰に両手を置き、仁王立ちしている。穂波は、思わずドアを閉めそうになった。
「た、ただいま。帰ってたんだ」
「帰ってたんだ、じゃないよ。もう夜だし。何度も電話したのに、どうして出ないの」
「ごめん…」
「急用ってLINEだけ入れて消えるなんて、どうかしてる。僕、チャペルでスタッフさんと待ってたんだよ?恥かいたわ」
「ごめんって言ってるじゃん」と一樹を押しのけ、リビングへ進む。
「おいおい。一体どこに行ってたの?」
「えーっと…恋愛相談。ほら、会社員時代の同僚の、花苗。あの子、すごく悩んでて。夢中で相談に乗ってたら、こんな時間になっちゃった」
一樹は、信じていない様子で「へえ?」と言う。
それからソファに沈み込み、サイドテーブルに置いてある分厚い本を手に取り、ページをめくり始めた。
彼の座るソファの脇に、洗濯物がきれいに畳まれて置いてある。
穂波が颯斗の家のソファで楽しんでいた間、一樹は、穂波のシャツやタオルを畳んでいたのだ。
「ごめん、一樹…」
つい、小さな声がもれる。
「なにが?なんか、後ろめたいことでもしてたの?」
「…違うけど、急に消えたりして、ごめん」
― もう答えは出たのよ。颯斗は結局、佐奈が好き。だから私には、一樹がふさわしい…ふさわしい…。
これ以上颯斗に入れ込んでも、もどかしくてイライラするだけだろう。残念だが自分の相手は一樹なのだと、穂波は観念する。
「ねえ…一樹」
「ん?」
「後ろめたいことなんてないからね。だって、本当に花苗に会ってたのよ。式場見学、またリベンジさせて」
返事はなかった。
― はあ、なんか疲れた。一樹に、疑われてるみたいだし。
穂波はしばらく、自分の部屋でぼんやりした。しかし、ふと19時を回っていることに気づくと、リビングに戻る。
一樹は、変わらず本を読んでいる。
「ねえ…夜ご飯、今日もUberでいい?なんか疲れたから」
一樹は「いいけど」と言いながら、冷笑した。
「穂波に振り回された1日だったのに、手作りのご飯も出てこないなんて、悲しいね」
心外だった。
一樹は、先日言ったはずだ。「週の半分くらいはテイクアウトや外食にしよう」と、歩み寄ってくれたはずだ。
「え?この前自分で言ってたじゃん。週半分はテイクアウトでいいって」
「言ったけど…」
「なんなの?もう撤回?ていうか、たまには料理くらい自分で作ってよ。今日私、あんまりお腹すいてないから、作るの面倒なの」
すると一樹が、真顔になる。
「前から思ってたんだけど、穂波はさ、なんで“歩み寄ってもらうのが当然”みたいな顔してんの?」
一樹は、説明口調で淡々と穂波を責め立てる。かつてなく、語気が荒々しい。
「僕はいろんな努力をしてるよね?洗濯も掃除もしてる。当然、仕事もしてる。穂波はなにか努力してるか?
いつも自分の権利ばかり主張してるよね?言っとくけど、さすがにうんざりしてるからね」
一樹は本を閉じると「別に、今日もUberでいいよ。ほんとに結婚前とは随分イメージが違うよ」と、再び冷笑した。
― え、何様?それを言うなら一樹だって、結婚前と今とではイメージがだいぶ違うわ!
結婚前はもっと控えめで、うぶな印象だった。しかし最近の一樹は、すごく嫌味っぽくなったように感じる。
ムカついた穂波は、キッチンに直行すると、冷凍庫から冷凍食品のパスタを出し、電子レンジに放り込んだ。
「いいよ、作ってあげるから黙って。私はいらないから、パスタでも食べて」
― また、文句言われるんだろうな。
新婚生活が始まった直後に、冷凍パスタの夕食に文句つけられたのをよく覚えている。
あのときは正直、ひどく動揺した。でも今は、どうでもいい。
今や「一樹によく見られたい」という気持ちが、まったく残っていないのだ。
― 片付けもだるいから、お皿に移さずトレーごと出そうかしら。
颯斗への思いは実らず、結婚生活ももう限界。
目の前の現実に、自暴自棄になっていた。
翌日の月曜日。
一樹が出社していき、いつものように広い部屋にひとりきりになった。
― 今日はなにしよう。六本木でランチでもしようかな。
Instagramでレストランを探しているとき、LINEの通知が来る。
― ん…佐奈!?
佐奈からLINEが来るのなんて、初めてだ。
佐奈:ねえこれって、穂波の?ソファの隙間にはさまってたんだけど。
大きなオパールの飾りがついたヘアアクセサリーの写真。間違いなく穂波のものだ。
佐奈:違ったらごめんね。でも穂波、颯斗の会社のパーティーのとき、つけてなかった?
― 忘れ物でばれるなんて、最悪!
佐奈は、颯斗の部屋にいるということか。ケンカで音信不通だと聞いていたが、いつの間に仲が戻ったのかとやきもきする。
どう返信を打つべきか考えている間にも、佐奈は一方的にメッセージを送り続けてくる。
佐奈:ってことは穂波、颯斗の部屋に来たの?
佐奈:颯斗と寝たの?
「寝たよ」と言ったらどうなるだろう、と考える。
佐奈に嫌われるだけなら、何の問題もない。
しかし佐奈に「へえ、穂波って“都合のいい女枠”なんだ」と格下に見られるのだけは、嫌だった。想像しただけで虫唾が走る。
― やっぱり、隠すべきね。オパール、高かったけど…否定しよう。
穂波:違うよ。それ、私のじゃない!
追加でもう一通、送信する。
穂波:でもどう見ても、女モノだね。颯斗って浮気してるんだ。モテそうだもんね。
本当はさらに「佐奈よりキレイな子なんてどこにでもいるし、当然か」と付け加えたかったが、さすがに良心がとがめ、やめておいた。
― なんか私、一樹の嫌味っぽさが伝染した…?やだやだ。
メッセージにはすぐに既読がついたが、佐奈からの返信はなかった。
◆
それから1週間。一樹との夫婦関係は、悪化の一途をたどっていた。
穂波が冷凍パスタをトレーごと出したあの夜から、一切会話がない。
変わらず洗濯物を畳んだり、掃除をしたりしてくれることは評価したいが、冷たい空気が家中に満ちていて、毎日不愉快だ。
― やっぱり無理。こんなの続かない…。
朝、出社していく一樹を見送りもせずに部屋にこもると、穂波はスマホを開いた。
Googleで「離婚 財産分与」と検索する。
その瞬間、颯斗からLINEが入ってきた。
颯斗:穂波に、言いたいことがある。これを言ったら、不快な気持ちにさせるかもしれないけれど…。
▶前回:「ごめん、チャペルには1人で行ってくれる?」そう夫に告げた女は、式場見学の最中に別の男に電話して…
▶1話目はこちら:スピード婚は後悔のはじまり…?30までの結婚を焦った女が落ちた罠
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颯斗の「言いたいこと」とは?
「このこと、彼女には黙ってて」体を重ねた男に“あやまち”扱いされた女は、怒りのあまり…
2022年11月18日