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「自分は阪神をクビになった」と思った関川浩一がトレード先の中日で大活躍できた理由【逆転野球人生】

週刊ベースボールONLINE

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

阪神では便利屋扱い



阪神時代の関川。駒大から捕手として入団した

 その選手は、28歳にして子どもの頃からの夢を実現させた。

 少年時代に田淵幸一に憧れた関川浩一は、阪神に入団して7年目の1997年から栄光の背番号22を背負う。初めて買ってもらったキャッチャーミットにマジックで阪神のマークと田淵の22番を書き込んだ野球少年は、ついに夢をかなえたのである。だが、いざ夢が日常になると、そこにはプロ野球の厳しい現実があった。捕手として山田勝彦、定詰雅彦らと併用され、シーズン中盤以降は外野で起用されたのである。

 関川は駒大時代に東都ベストナインに2回選出される好捕手として鳴らし、90年ドラフト会議で阪神から2位指名を受けた。当初の背番号は21、右投左打の俊足の持ち主で、入団直後から外野転向案が浮上するほど打撃への評価が高かったが、あくまで本人は「自分はキャッチャーでプロに入ったのだからキャッチャーで飯を食っていきたい」と完全コンバートには難色を示した。もっと試合に出たい、もっと目立ってアピールしたいという気持ちは当然あったが、誰だって、社会に出た直後は、舐められてたまるかと虚勢を張るものだ。

 3年目の93年にプロ初アーチを放つと、1学年下の山田が守備型、関川が攻撃型と認識され、徐々に併用されるようになる。ベテラン捕手の木戸克彦が徐々に出番を減らしていた時期で、93年から95年は関川がキャッチャーとしてチーム最多出場。95年6月2日の中日戦にトップバッターでスタメン出場するが、阪神では74年9月26日の中日戦で田淵幸一が起用されて以来の「一番・捕手」の誕生だ。この年、オールスターにも初出場。打率.295、12盗塁と阪神時代で唯一の規定打席に達するも、捕手94試合、外野24試合という内容だった。

 所詮オレは便利屋扱いか……。20代中盤の関川にとって、不満や焦りは当然あった。最下位が定位置の暗黒期のチームは、監督やコーチも入れ替わりが激しい。当然、上司が代われば、自身の起用法も変わる。藤田平監督は関川の外野起用を決断したはずが、復帰の吉田義男監督は「捕手一本」宣言。かと思ったら、シーズンが始まってしばらくするとまた外野で使われる。そんな中途半端な立場でも、96年と97年は規定不足ながらも2年連続の打率3割を記録。憧れの背番号22に変更した97年は、序盤はリードに悩み打撃不振に陥り、5年ぶりの二軍落ちを経験するも、外野手として復調すると打率.306、5本塁打、26打点としっかり結果を残した。

中日では“大人”になって


 85年V監督のムッシュ吉田が帰ってきても、5位浮上がやっとの眠れる虎。だが、皮肉にもどんな使われ方でも毎年コンスタントに安打を積み重ねた関川は、他球団から注目されることになる。人気者の新庄剛志や桧山進次郎は出せないだろうが、起用法が定まらない関川ならトレードで狙い目というわけだ。中日の星野仙一監督もそのひとりだった。広いナゴヤドームの開業初年度、中日は屈辱の最下位に沈んでいた。チーム本塁打は前年の179本から115本へと激減して、強竜打線も沈黙。新球場に合ったドーム野球に変える必要に迫られ、目をつけたのが、俊足巧打の関川だった。そして、97年10月、阪神からは関川と久慈照嘉、中日からは大豊泰昭と矢野燿大という2対2の大型トレードが成立する。

 当時の報道では、トレードの目玉は元本塁打王で96年も38発放っていた大豊と、虎の正遊撃手で6年連続規定打席に到達した元新人王の久慈で、ともに外野もできる便利屋捕手といった立ち位置だった矢野と関川は決して主役ではなかった。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。

 関川は変わった。いや、大人になった。「シーズン当初は捕手なのに決まって外野に回された」なんて愚痴をこぼしていた若虎が、移籍後はキャンプの休日に外野の守備特訓に燃え、練習終了後も特打を繰り返した。週べ98年3月30日号「新天地で生まれ変わった男たち」特集では、関川のこんなコメントが掲載されている。

「自分としては阪神をクビになって、中日に拾ってもらったと思っている。拾ってもらった以上、自分の“我”を通すなんてできるわけないでしょう」


星野監督[左]と関川

 オレは阪神から捨てられた選手。そう思うと、不満をこぼしている余裕はなかった。プロ8年目、ボヤボヤしている時間はない。新しい環境には、トップが目まぐるしく変わった古巣とは違い、絶対的なボスとして君臨する星野監督がいた。指揮官は、チームが苦手とする斎藤雅樹(巨人)や川尻哲郎(阪神)のサイド右腕攻略のキーマンに新背番号23を指名。「2人が先発でくる場合は、セキを捕手で使うこともある」と早々と明言した。すると、関川は前を向いてこう口にしたのだ。

「立浪(和義)も李(鍾範)も外野の練習をくり返している。一人2ポジションがチームのノルマなら、自分が捕手と外野をやるのは当然ですから」

闘将・星野との相性も抜群



ガッツを前面に押し出すプレースタイルは星野監督の好みだった

「とにかく僕は生まれ変わりました」とまで宣言する関川。気分を変えようとヒゲも伸ばしてみた。まさにトレードが心機一転のリスタートのきっかけとなったのだ。移籍1年目の98年は自身二度目の規定打席に到達して、チーム最高打率.285をマーク。中日も横浜と優勝争いを繰り広げ、9月に失速したが2位と順位を上げた。週べ98年9月21日号の久慈と受けたインタビューではこんな掛け合いがある。

久慈「いやあ、今年はセキさんも生き生きしてるでしょう。阪神のときはキャッチャーで苦労していたから。だから、走、攻、守のすべてにおいて、今年は野球では違う関川浩一を見せてもらっています。やっぱ、キャッチャーは合ってなかったんじゃないですか(笑)」

関川「そんなことないよ!」

久慈「来年から登録も外野手になるでしょう。そうしてもらった方がいいんじゃない?」

関川「そうだね」
                
 なんつって、めちゃくちゃあっさり認めちゃうセキさんであった。人工芝のナゴヤドームの外野は守りやすさを感じたし、気持ちを前面に出すガッツあふれる関川のプレースタイルは、闘将・星野との相性も良かった。オフに遊離軟骨の除去手術を受け右ヒジに不安がなくなった中日2年目の99年は、「3番左翼」で開幕スタメン。チームは日本タイ記録の開幕11連勝を飾るが、関川は打率.450、11打点とその原動力となる。代名詞の弾丸ヘッドスライディングと胸まで泥だらけのユニフォームは星野野球の象徴となり、オールスターでは第1戦で六番・ペタジーニと八番・古田敦也のヤクルト勢に挟まれ、全セの「七番・左翼」で先発出場。背番号23は一躍、名古屋の人気者となった。
 

1億円プレーヤーの仲間入り


 99年8月17日、2位・巨人を本拠地に迎えた直接対決は今でも語り草だ。「一番・中堅」でスタメンも、この年20勝を挙げたゴールデンルーキー上原浩治との初対決で、なす術無く3球三振。絶対にやり返してやると心に誓った9回裏、一死満塁の場面で、関川は相手クローザー・槙原寛己からレフトオーバーのサヨナラ打を放つ。歓喜の輪の中で、ベンチ前でヒーローを出迎える指揮官は「セキ! よくやったぞ」と抱擁。星野も、関川も泣いていた。


1999年の中日リーグ優勝に大きく貢献した

 ついにプロ9年目の30歳で覚醒したガッツマンは135試合フル出場。172安打を放ち、リーグ2位の打率.330、4本塁打、60打点、20盗塁の大活躍で、星野中日を11年ぶりの優勝に導いた。一方で、自身初の日本シリーズではダイエー投手陣から徹底マークされ、21打数2安打の打率.095と大ブレーキ。中日打線の生命線は関川と研究されていたのだ。それでも敗退直後に星野は、「(シリーズ)5試合だけで選手を評価するのは酷だろう」とペナントの功労者を責めるようなことはしなかった。なお、99年オフの関川は巨人の松井秀喜や高橋由伸らとともにセ・リーグ外野手部門のベストナインに選出され、MVP投票ではドラゴンズのエース・野口茂樹、投手四冠の上原に次いで、僅差の3位。野手ではダントツの投票数を集めた。そして、契約更改では移籍時には5200万円だった年俸も、ついに1億円プレーヤーの仲間入りだ。

「打席では、いつも相手とはケンカだと思って、負けてたまるかという気持ちで入ってますから。中日に来てからは、燃える男、星野監督のおかげで、いつも熱くなってます」
 
 古巣から捨てられたと思ったら、新天地で自分のことを高く評価してくれる上司と出会った。自分が変われば、世界も変わった。虎の便利屋から、竜の救世主へ。関川浩一は、トレードからわずか2年で、「逆転野球人生」を実現させてみせたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
 
   

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