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こんなに幸福な実写化はない 戸田真琴が綴る『マイ・ブロークン・マリコ』

Real Sound

©平庫ワカ/KADOKAWA©︎2022映画『マイ・ブロークン・マリコ』製作委員会

 物語を観終えたあとの余韻こそが物語かもしれない、といつも思いながら歩いて帰る。私が『マイ・ブロークン・マリコ』を試写で観たあとの帰り道は大雨で、坂道を雨水が、地面の凸凹を均してなめらかに流れていくほどの豪雨で、ビニール傘を、うしろにひっくり返しながら諦めながら、歩いた。黄色いスカートも、革製のサンダルも、取り返しのつかないほどくたくたに濡れている。

参考:永野芽郁×奈緒、信頼関係が生んだ2度目の親友役 「“ファンの1人”みたいな感覚」

 なにかを諦めるときの妙な明るさが、人生というもののすべてのような、そんな気がたまにしてしまう。その「諦め」は、小中学校の体育で「諦めるな!」と先生に叫ばれたあの言葉とは違う、何かを、ひと呼吸して、ほんの少しの甘い切なさをもって、そっと手放してやるような。ほんの少し風が吹いて、午後の光がきらりと差して、波が光りながら海の彼方へ引いていくのをすこし情けない気持ちで見るような、あの途方もない、哀しい感じ。だから私は、実写になったマリコとシイノの物語を観て、それが1時間半くらいの映画で、邦画のしずかで美しい色合いとあの、パンプスのコツコツ歩く音も奥まで尖って響いてくる整音で、のめり込むように観てから帰る道がこんな大雨で良かったと思った。ほんとうに哀しいけれど、どうしても手放したくなかった何かをほんのすこし微笑んで手放す、という感覚が、雨の中きれいな状態で帰ることを諦めるときのほの明るさと、少しだけ似ている。

 何度も繰り返し読んだあの原作『マイ・ブロークン・マリコ』と、映画を観たあとに胸に残ったもの、ふと思い出す陽の光の差し方や叫び声のにごり方、全体を包む大きなオーラみたいなものがほとんど同じで、だからこそ、この映画は痛ましく美しい。監督であるタナダユキさんがいかに念を込めながら企画し、制作してきたのかが伝わってくる。そのうえで、そういうふうに強烈な愛と執着をもってこの映画を作り上げた誰かがいることさえも、忘れる瞬間がいくつもあった。特に、シイノの記憶がマリコの動き、笑ったり叫んだりして生きていたあの時間と空間をリプレイするときがそうだった。マリコ以外のすべてを、心底どうでもいいと感じているような、閉塞した感覚。ノイズキャンセリング。それだけで、マリコはほんとうにシイノの全てであったことがあまりにも分かるのに、このノイキャン世界をそのままマリコに見せてやることが叶わないなんて、たとえ生きていたとしてもこれをそのまま見せてやることは永久にできなかったなんて、神なんかほんとうに居ないんだな、と心から思う。だけれど、映画館で、この映画を観る私たちはあの静寂を、うるささを、想いの在り方を、やるせなさのつんざくような悲鳴を、五感で味わうのだ。映画になってよかったな、原作のあの一冊の単行本にすべてがあることには変わりないけれど、映画になって、さらに良かったんだな、と思う。こんなに幸福で、手を取り合って一緒にのぼっていくような実写化の例はほんとうにあまりないだろう。原作を読んで、心を強くたたかれた人たちには、この映画を観ることも強くおすすめする。

 本編は、すこしのオリジナルパートをはさみつつ、それさえも「原作をなるべく再現する」という意思に反さないまますばらしいクオリティで展開される。色味や画角、無音やスロー、ロケ地やヘアメイクに衣装の質感、そして何より、何より、全てを賭すように強烈な芝居でスクリーンの中を生きて、マリコに至ってはもう死んでいることさえ分からせないように生きてくれた、至上の俳優陣。彼女ら、彼らすべてに心からの敬意を称するとともに、この1時間半という決して長くはない物語の中でわたしたちは何を持ち帰るべきなのか、なるべく思い浮かぶ多くのパターンを考える。考える。あのとき、わたしたちは何を受け取れたんだろう。あるいは、あのシーンの中でわたしたちが読み飛ばしたものはなんだったんだろう。

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 それは、もう居ない人の、あったかもわからない本当の意図のようなものを、いつまでもいつまでも探すように。そして私はそういう脳の動きのことを、じっさい、愛と呼ぶようにしている。

 悪役が平気でモノローグを語るマンガが苦手だ。読者は神じゃない。悪役の心情がわかってしまった時点でそれは驚異ではなくなってしまう。そしてそれよりももっと、死んでしまった人にべらべら喋らせるマンガが苦手だ。天国から優しく見守ってるよね、とか勝手に死者を天国とかいうあるかないかもわからない場所におさめる思想も苦手だ。苦手というより、嫌いだ。死は、その先がなくなる、ということなのだ。断絶。無。すべてが書いてあるあの、この世に一冊しかない本、聖書の原本が燃やされて灰になって永遠にあそこに何が書いてあったのか読めなくなってしまうということ。禁書。死んだ人とはもう話せない。あのとき何を考えていたの、なんて、聞いても誰も答えない。あるのは、自分の頭の中の記憶だけ。正確かどうかさえわからないその傷んだビデオテープを、繰り返し再生し、そこに何が映っているのか調べることしかできない。すでに失われたものは、失われてからもなお、一秒ごとに失われていく。一秒、と刻んでみたけれど、本当はその一秒の間も進行していて、砂時計の粒がどんどん落ちていくように、絶え間なく失われていく。あの子のことを調べ尽くして追いかけて知った気になって虚空に返事を返す、あのむなしい悼みかたにさえ、タイムリミットがある。なにもかもどこまでひどいんだろう、ありえない。永遠がないなんてありえない。愛している人とのハッピーエンドにたどり着くまで生き延びて歩いていけないなんて、ありえない。それなら死んだほうがマシだって思っちゃうあの子の気持ちだってわかっちゃってありえない。燃やされてしまったあとの、もう読めない本を、どんなことが書かれていたか必死で思い出したり想像したり考察したりしながら歩む喪の旅路は、すすんでいくから、歩いてゆくから、歩けば歩くほど、さらさら消えていく。ありえなくて、哀しくて、愛していた人が遺骨のさらさら白い粉みたいに光って散っていって、青空は青くて粉が映えちゃってきれいでクソで、愛していたという事実だけが、あの一番子供じみた、愛増嫌悪同情恋慕あらゆるすべてを飲み込んだ異常感情だけが、かわいそうに、置いていかれる。愛が痛ましく叫ぶ。置いていかれてしまう。歩けば歩くほど、追いつけなくなる。

 だけれど、その愛の痛々しく身を捩るさまを感じながら、歩き続けることが、遺骨をたとえば食べてしまうことよりもはるかに、死んでしまった人とずっとどこまでもゆく唯一の方法なのだ。死を美化せず、痛ましいまま、やるせないまま、処理できない感情の中で歩き続けるこの物語が、惨めに生き伸ばしてしまった所詮生きている人間どもが、大切な誰かの不在に引きずられてこの世を離れそうになるときに、フラッシュバックして光るといい。そういうときに光るかもしれない、と頼りにできるような作品は、そうそうない。映画館という暗闇で、見つめるしかないおおきな光る長方形の中、その先に広がるあったかもしれない世界の様子を見る。心を嫌が応にも寄せてしまう、そんな環境は、哀しくて美しいことを、脳に焼き付けるには最適だ。映画になってよかったな。(戸田真琴)

 
   

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