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【小説】商家の父から「大学へ行け」発言。想定外な言葉の真意とは…

幻冬舎ゴールドライフオンライン

第二次世界大戦中の上海、戦後の日本。意図せずして諜報員として戦争に関わる青年と、それを取り巻く個性的な仲間たちの人生を躍動的に描いた長編歴史小説。花街で育った賢治は、歳の割にませた少年だった。昭和11年、明治大学の予科に進学した賢治は、広告研究会に所属し、華やかな時代の流れに乗り、広告の研究に情熱を燃やす。卒業後、サークルの機関誌をきっかけに就職した会社は外国向け宣伝誌の制作会社だったが、ある日上海への転勤を命じられる。当時の上海は、“洗練と猥雑”が同居した、まさに“混沌”とした街だった。第二次世界大戦の戦火が激しくなる中、ダンスホールや、バーで出会う人々との交流を通して、「魔都」と称される上海の裏側に、賢治は意図せずして足を踏み入れていく――。※本記事は、中丸眞治氏の小説『上海輪舞曲』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

第一章

遊び相手が減って暇を持て余した賢治は、マッチのラベルの蒐集では飽きたらず、商店の包装紙や折り込みチラシも集めるようになった。

賢治の町の乾物屋や魚屋、八百屋は古新聞で包んでいたが、繁華街にある老舗のお店では果物屋でさえ「フルーツなんとか」という名入れの洒落た図案の包装紙を使っていたし、菓子屋でも繁華街のお店では、町内のコウちゃん家と違って進物箱の掛け紙を季節ごとに替えている。それらの包装紙や掛け紙の図案は趣向を凝らしたもので集めることに張り合いがあった。

大震災後、昭和の時代になると東京の松坂屋や高島屋などの大きな百貨店が、年に数回甲府の商工会議所の三階ホールを借り切って一週間ほどの出張販売をするようになった。

地元でも、父ちゃんの店より大きな呉服屋の「大黒屋岡島」は、数年前から「岡島百貨店」と名前を変え、三階建ての新店舗を建てて洋品や雑貨も揃えて季節ごとに新聞にチラシを折り込んだり、郵便で時候の挨拶を兼ねて宣伝したりしていた。

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賢治は学校へ上がる前の大正十二年の大震災のとき、まだ四歳だった頃、町内の若い衆に背負われて、畳と一緒に近所の信立寺の境内に避難した記憶がある。その数年後から甲府の商業環境がどことなく変化してきたことを、子ども心に強烈な記憶としてあとあとまで覚えている。

十二歳で尋常小学校を終えると、すぐに商店の小僧として丁稚奉公に出る者、職人の息子であれば将来実父の跡を継いで職人になるために他人の親方に弟子入りする者が多い。賢治の隣町には実業学校として甲府商業学校があり、町の商店主の旦那の息子たちの多くは尋常を出たあと、この学校へ通って簿記などの商売に必要な科目を学ぶのである。

賢治は湯田尋常小学校時代の六年間、学校まで毎日十五分ほど歩いて通う道すがら、商業学校のグラウンド脇を通り、帰りがけには土盛りに三段の木製のベンチシートがあるグラウンドで野球の練習を見学した。また、校庭で三角ベースを作って仲間たちと野球のまねごとをしたこともある。

このグラウンド脇を通るとき、尋常を出てから、いずれはこの学校に入るのだとなんとなく思っていた。ところが、この間から父ちゃんが珍しく昼の間にしょっちゅう家に来て、かあちゃんと何やら話し込んでいたのを訝しく思っていたが、それは賢治の進路についての話だったということがわかったのである。

賢治が母親を呼ぶときは姐さんたちと同じに「おかあさん」でなくてはならない。人前ではそうしていたが、友達仲間との会話は勿論、賢治としては、母はあくまでも「かあちゃん」である。

父親が言うには、

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