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名門・麻布学園に通った男が体験した「毎月25日の苦痛」

幻冬舎ゴールドライフオンライン

音楽家の家に生まれ育ち、幼少期に国民の一人として太平洋戦争を体験した。 戦後は日本で青年期を過ごし、その後研究職に就いた著者は、国内外を問わず 様々な組織で活躍する人生を歩むことになる。 これまでの半生を振り返り、辿りついた人生のテーマとは。※本記事は、藤田慶喜氏の書籍『共生感謝録 灰燼から繁栄時代に生きた一市民の記録』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

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第2章 麻布中、麻布高、東京大学の頃

麻布学園(中学校・高等学校)

赤松小学校から麻布中学を受験したのは四人、そのうち三人が合格した。横堀幸司君、宮田誠君であった(後に横堀幸司君の資料によって知ったが、受験者数が十一人、うち合格者数は四人とのことであった)。

当時は筆記試験が禁止されており、すべて口頭試問でなされた。覚えていないが、六大都市名、翌年の曜日を答える問題などがあった(筆者は一年の日数を七で割り、余り数をずらして曜日として暗算をした)。

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麻布は当時から名門であったので、志望者が殺到した。長兄献は転校生、太寅弟は高一から入学であったので、正規入学はわが家では自分しか居ないと思っていた。のちに末弟和也がちゃんと合格している。

敗戦後の新制度による試験を受けて入った学年から、出来る学生が多いといわれていた。筆者は新制度の二年目にあたる。しかしそれは噂に過ぎず、各学年それぞれ、出来の良い生徒が多く、一流大学に多く合格している。ガリガリではなく教師は自由にさせていた。

毎月のことながら二十五日を過ぎると、嫌なことが中学、高校時代にあった。黒板の右隅に、教師が七、八名の名前を書く。月謝滞納者だ。今月は書かれまいとするが、貧乏音楽家、子沢山の家の息子ゆえ、仕方が無かった。

当時都電という路面電車があって、麻布中に通うのに目黒駅から「五番」という印のついた電車に乗る。「二の橋」で降りて仙台坂を登る。この定期券も毎月単位で購入せねばならない。僕にとって麻布への月謝納入と都電用金策が毎月継母との重大折衝事項だ。その前数日間に継母に何か気にさわることをすると、なかなか出してもらえない。

継母も家計が苦しかったのであろう。都電の定期が買えないときは、目黒駅より白金、日赤病院下を通って、有栖川公園の脇を通って、麻布中まで歩く。しかし月謝の支払いのほうはどうしようもない。

学校を終えて帰りにはいつも使う「五番」で通う友人達、松浦、森本、月岡、藤本、藤井、吉田(満)らと校門で左右に別れざるを得ない。敗戦から数年経ち、高校生になると、わが家の経済も少しずつ「まし」になってきたので、このようなことも少なくなってきたが、困窮生活は中高の六年間は続いたような気がする。

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