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“捕手として一度終わった”中尾孝義は、なぜ巨人でカムバック賞を受賞できたのか?【逆転野球人生】

週刊ベースボールONLINE

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

“捕手の革命児”と称された男



中日時代の中尾

 その選手は若くして成功した。ドラフト1位でプロ入りすると、2年目には早くもMVPを獲得。“捕手の革命児”と称された中尾孝義である。

 現役で慶大受験に落ちるも、一浪して入った専修大で東都リーグきっての好捕手と話題となり、日米大学野球では全日本の四番も打った。プリンスホテル野球部の一期生として入社すると石毛宏典らとともに主力を張り活躍。1980年ドラフトで中日から1位指名を受ける。石毛(西武1位)や東海大の原辰徳(巨人1位)とはプロ同期生である。

 身長173cm、体重75kgの引き締まった体型で、100m11.3秒の俊足。背筋力300キロ、握力は左右ともに80キロ以上。逆立ちしたままナゴヤ球場のグラウンドを一周する筋力にナインは驚き、練習でショートに入ると、捕球から送球まで本職を凌駕する動きを披露する。野村克也や自チームのベテラン捕手・木俣達彦は、いかにもキャッチャーというずんぐりむっくりのがっしり体型だったが、スリムな中尾は彼らとは対照的な新時代のアスリート型捕手として名前を売る。

 その出現は革命的だった。分厚いミットを持ちクロスプレーは両手でタッチというそれまでの常識にとらわれず、片手でもスムーズに捕球やタッチができるようミットを薄く軽くした。下からかち上げるようなファイト溢れるブロックに俊敏なバント処理。アメリカから取り寄せたひさしのないヘルメットを被ると、丸刈り頭のようなシルエットで“一休さん”と一躍人気者に。1年目から116試合に出場して、盗塁阻止率.450を記録。木俣から正捕手の座を奪い、2年目の82年は打率.282、18本塁打、47打点、7盗塁の成績でチームのリーグ優勝に大きく貢献すると、ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞、セ・リーグ捕手初のMVPを獲得してみせた。大先輩の星野仙一は「若いくせに、自分がこうと決めたら、オレがフォークを投げたいと思っても、ガンとして投げさせてくれん。ガンコなヤツだ」なんて笑い、ボスの近藤貞雄監督もその才能にとことん惚れ込み、こう絶賛した。

「私は長いこと野球を見てきたが、戦前、戦後を通じてナンバーワンの捕手といっていいんじゃないか。捕手の概念を変えた男だよ」


82年の日本シリーズでは優秀選手賞を獲得[右は上川誠二]

 プロ入りわずか2年で捕手のイメージを変え、ハワイV旅行中に現地の教会で結婚式をあげ、新妻からは「ねぇ、ナカリン」なんつって呼ばれるバラ色のオフ。だが、20代中盤の若さですでにシーズン終盤は痛み止めの注射を打ちながらのプレーを余儀なくされるなど、怪我の多さが目立った。ヒザやアキレス腱に不安がある“ガラスの王子”。抜群の身体能力を持つ一方で大学時代からサユリストじゃなく“サボリスト”の異名を持ち、水泳トレーニングに取り組めば3日目に風邪を引くズンドコぶり。「体力が備わっていないだけに、選手寿命に疑問が持たれる」とフロントは苦言を呈し、MVP獲得の翌年には内野転向が度々報じられた。そんな悩める背番号9の扱いに、「中尾はセ・リーグの宝。大事に育ててやってほしい」と中日コーチに耳打ちしたのは、敵ベンチにいた巨人の藤田元司監督である。この縁は、のちに大きな意味を持つことになる。

トレード先はまさかのライバル球団


 右肩を脱きゅうして76試合しか出場できなかった84年、打撃面では打率.322、12本塁打、35打点、OPS.957の好成績。「中尾のパワーと技術なら、(内野転向すれば)クリーンアップも任せられる」とコーチが太鼓判を押す非凡な打撃センスは健在だった。実際に85年11月のセ・リーグ東西対抗戦では三塁を守り、山内一弘監督も86年シーズンは「中尾を三塁に回す」と明言。しかし、二転三転したあげく、本人の意向もあり、このコンバートプランは幻に終わる。そしてトレード話も報じられた86年秋、中尾の運命を変える人事があった。燃える闘魂、星野仙一が中日の監督に就任したのである。

 中尾が新人の頃、星野の勧めもあり名古屋に土地を買ったし、結婚式の仲人もしてくれた。その親しい先輩が自分のボスになる。「ドラゴンズのキャプテンをやれ!」と命じられ、上と下に挟まれ気を遣い胃潰瘍になったが、87年はチーム最多の73試合にスタメンマスクを被り、打率.291、16本塁打。しかし、ある試合でコーチから変化球を投げろと指示され、変化球のサインを出して打たれたらそのコーチから理不尽に叱責されたことにプッツン。中尾は「捕手なんかやってられません」と直訴して、星野も相変わらず怪我の多い後輩を88年から外野手転向させる。

「中尾には殺気があったんや、プレーにな。その殺気が消えてしまえば、仕方ないやろ。あれだけの才能をあいつはわずか7年で食いつぶしおった」

 当時の週べにはそんな星野語録が残されているが、この昭和最後のシーズン、中日は6年ぶりのVを達成するも、腰痛に苦しんだ中尾は不完全燃焼の1年に。過去に「サードを一度やってしまったら、もう捕手には戻れないかもしれないからね。それが怖いんです」とコンバートを断った男は、やはり捕手へのこだわりと未練があった。

 若手のホープだったはずが、気が付けば30歳を過ぎ、自分の希望と違う仕事をしている。会社も家庭もいいことばかりはありゃしない。昔、ベテランの木俣からポジションを獲ったように、今度はひと回り年下の中村武志に正捕手の座を奪われた。星野は現役時代の自分を知る選手たちを続々と放出して、新しいチームを作ろうとしている。今年ダメならトレードされるだろうという予感もあった。まさにそんなときだ。88年オフ、星野から電話でトレード成立を告げられる。行き先はまさかのライバル球団巨人。元・沢村賞投手の西本聖、若手の加茂川重治との2対1の交換には、それぞれの親会社も難色を示したが、その捕手としての力量を高く買う藤田元司が巨人監督に復帰。中尾の獲得を強く望んだのだ。山倉和博や有田修三に衰えが目立ち、センターラインの強化は急務だったが、中尾が100試合以上に出場したのはMVPに輝いた82年が最後、33歳で腰痛持ちの“元”捕手の獲得に疑問の声があがったのも事実だ。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない―――。一度終わったはずの捕手は、新天地で劇的な復活を遂げるのである。

“平成の大エース”覚醒のきっかけに



巨人移籍1年目、捕手として輝きを取り戻して優勝に貢献

 前年の開幕戦は「六番・左翼」でのスタメン出場だったが、巨人では「八番・捕手」の開幕スタメンマスク。桑田真澄を完投勝利に導き、お立ち台で「中尾さんのリードに驚きました。こんな攻め方があるなんて」と若きエースは感謝を口にした。さらに背番号22は、斎藤雅樹を強気なリードで引っぱり覚醒のきっかけを作る。平成元年の斎藤はなんと11連続完投勝利を含む20勝を達成。ここから“平成の大エース”と呼ばれていくことになるが、『よみがえる1980年代のプロ野球』1989年編の中で、その要因に「中尾のリード」をあげている。

「中尾さんはもうこれでもかぐらいにインサイド、インサイドに来いと。僕も冷や汗をかきながらも何とかその要求に応えたい、投げ切りたいという思いだけで投げ続けていました。それを何度も繰り返していくうちにインサイドに投げる技術が実戦の中で自然と培われていった」

 この年の巨人のチーム防御率2.56は12球団ぶっちぎりトップ。年間完投69を誇る若くタフな投手陣を中尾はリードで牽引して、影のMVPとまで称された。87試合で打率.228、5本塁打、27打点と一見平凡な成績だが、ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞を受賞。なお、54安打はセ・リーグのベストナイン捕手としては最少安打数である。巨人8年ぶりの日本一の瞬間、満面の笑みでマウンドに駆け寄ったのは背番号22だった。それだけ、藤田巨人における捕手・中尾の存在感は大きかったのだ。なお、トレード相手の西本も中日で20勝を挙げ復活。中尾とともにカムバック賞に輝く。いわば窓際のベテランに片足を突っ込みかけていた両者にとって、まさに逆転野球人生の移籍劇である。


92年途中には西武へ移籍した

 90年も藤田巨人はリーグ連覇するが、中尾は滝川高の後輩・村田真一に正捕手の座を譲る。腰痛に加え右ヒジ痛にも襲われ満身創痍。92年5月には大久保博元との交換トレードで、ドラフト時に熱心に誘ってくれた西武ライオンズへ移籍。黄金時代の西武で2年間プレーしたのち、93年限りでユニフォームを脱いだ。プロ通算13年間、在籍した3チームすべてで2度ずつ計6度の優勝を経験。中日から出されたあの移籍が終わりじゃなく、逆襲の始まりだった。トレードによって甦った男、中尾は週べ89年優勝特別号でこんなコメントを残している。

「あのトレードは失敗だった、なんて絶対にいわれたくなかったし、この1年は何が何でもやってやるという気持ちだけが支えだった。西本にとってもオレにとっても、今年は人生の節目の年。でも、巨人で優勝を味わえたオレの方が、ちょっぴり幸せかな」

文=中溝康隆 写真=BBM
 
   

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