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菊地成孔の『張込み』評(前編):始発から乗車せよ~逆に昭和を忘れるために~

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 登場人物は、主要人物が4名、コメディリリーフの脇役まで入れても10名に満たず、そして作中では一切の「事件」は起こらない(物語のきっかけとなる「過去の事件」は存在するが)。

 物語の要約も簡にして易である。クライマックス前までを記す。

 <都内で起こった質屋の主人に対する銃殺強盗事件。主犯は逮捕され、共犯の男は銃を所持したまま逃走する。男に対する警視庁捜査一課の判断は、実家に戻るか、昔の恋人に会いに行くかの2ウエイとなるが、肺病を病み、自暴自棄になった男が自殺や第二の殺人、恋人との無理心中を図ることは大きく懸念される。

 2ウエイに対応するために、刑事2組のバディ(注1)が、同じ急行(注2)で東京から出発し、1組は男の実家がある小郡で下車、主人公となるバディは、女の嫁ぎ先がある佐賀まで来て下車、「昔の恋人」の現在の生活を見張り、逃走中の男が訪ねてくるのを待つことになる。

 女の家の、小道を挟んだ向かいの旅館に逗留し、うだるような暑さの中、張り込み捜査を続けるが、捜査期間である7日間まで結局何も起こらない。しかし張り込み捜査を終え、所轄署である佐賀署に、上司の刑事が向かっている間に、男が会いに来て、部下である若手刑事は単独で2人を追うことになるが>

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 1958年の松竹映画『張込み』は、後、実に20年間の長きに渡って昭和を席巻し、国民食<松本清張の世界>を、我が国の庶民に喰わせまくることとなる(注3)、「松本清張(原作)/野村芳太郎(監督)/橋本忍(脚本)」のゴールデントリオによる第1作、まだ橋本忍以外の2人は、新人に毛が生えたようなもので今ひとつ作風も定まらず(名脚本家、橋本は当時すでに、黒澤組で『羅生門』『生きる』『七人の侍』という世界的な偉業を成し遂げていた)、未来も知れぬ状態の時に制作された<始発>であると同時に、後に完成する<松本清張の世界>からは、分類上外した方がいいかもしれぬほどの異色作である(注4)。<第1作>をフィルモグラフやビブリオグラフから外す。というのがどれほど例外的なことかは想像していただくしかないが、本作をご覧いただければ、何方も強くご理解頂けるはずだ。ここまでを前提とする。

※注1

 今では当たり前となった「刑事捜査は2人組=バディで行われる」ことを、初めて世に示したのが本作、しかも映画の方である(この点は、黒澤明の『野良犬』がオリジナル説があるが、「偶然、先輩と後輩の刑事が組むことになった」ようにも見え、本作ほどには、それを規定事実として描いていない)。原作は、警視庁での取材なしに書かれ、張り込みの刑事=主人公は1人しか登場しない。有名な逸話なので詳述は割愛するが(検索でいくらでも詳細が読める)、橋本の提案で警視庁まで直接取材に行った若き松本と野村は、この事実を意欲的に作品に組み込み、作品を成功に導く。松本は「原作より遥かに素晴らしい作品になった」と橋本、野村を激賛、ゴールデントリオ結成の要因の一つとなる。

※注2

 本作の有名な、11分間に及ぶアヴァンタイトルと、全てが終わり、実際の佐賀駅を使用した5分間のエピローグを繋ぐことで作品を円環で閉じ、本作「第三の主役」とも言える、2つの急行列車、東京ー鹿児島間を24時間以上かけて運行する<急行 薩摩号>と、帰途に使用する佐世保ー東京間を運行する<急行 西海(さいかい)号>について、筆者は文中にある通り、鉄道愛好家であり映画マニアである人々のブログをいくつも読み、さらに、映画すら眼中にない鉄道単体のマニアの、驚くべき詳細な資料を読むうち、敬虔な気持ちにさえなった。字幕がなく、耳では聞こえない駅名に関しては、すべてそうしたブログから再調査したものである。

 脇役であるバディ2は、<薩摩号>始発の東京から乗るが、映画は、主人公であるバディ1が横浜から、しかも、這々の体で乗り込む。この冒頭のシーンで引かれた伏線が回収されるのは、エンディング近くの佐賀駅の待合室だ。この点からも、本作が円環構造を採っていることがわかる。

※注3

 とはいえ、ゴールデントリオが残した作品は、本作以後

『ゼロの焦点』(1961年)
『影の車』(1970年)
『砂の器』(1974年)
『鬼畜』(1978年)

 と、『張込み』の1958年から『鬼畜』の1978年まで、20年間で僅か5作である。国民食の総量とはとても言えない(後述)。

 その後、この勢いに乗って、松本と野村は、松本作品をメインに製作すべく「霧プロダクション」を設立、歌舞伎役者の片岡孝夫(当時)の<気は弱いが悪辣で色気のある優男>ぶりが好評だった『わるいやつら』(1980年)で80年代に突入、しかし次作『迷走地図』(1983年)の評価を巡って2人は泥沼の確執の後に、「霧プロ」は僅か2作で解散、決別。

 ステップアップからの急激なブレイクダウンは類型の多いパターンとはいえ、当時松本74歳、野村64歳、後に松本は1992年に82歳で、野村は2005年に85歳で没する。実質、6~70年代という戦後昭和のメインステージを駆け抜け、「80年代」という手強い時代に瓦解するのは、時代性も強く働いており、致し方なしと判断するに躊躇はないものの、その資料を読めば読むほど、「戦争に行っていたジジイ同士の喧嘩と怨念は半端ねえ」としか言えない。

 こうして、いかに<松本清張の世界の国民食ぶり>が、ゴールデントリオの映画作品(その全てが松竹)を最大のご馳走に、夥しい量の原作小説、そして、さらに夥しいと言っても過言ではない、「テレビドラマ」に拠るものだったかは、テレビドラマ化の本数を見れば瞭然とする。

 本作『張込み』の映画化は後にも先にも本作のみであるが、テレビドラマ化は1959年から2011年まで実に52年間、12回を数え、このテレビドラマ『張込み』比較批評だけでも相当面白いテキストが成り立つのだが(大竹しのぶ劇場が延々と繰り広げられる1991年版の若手刑事が田原俊彦で、しかも彼のキャリア史上最高の演技を見せることや、「原作の若手刑事の未来」である先輩刑事がビートたけしの2002年版では、本作での、とぼけた愛すべき老刑事、宮口精二とは180度逆の<その男、凶暴につき>、原作を改め、何と射殺されてしまう。等々)自粛する。とにかくとどめを刺したのは、小泉孝太郎が主演の2011年版である。

※注4

 この、「後に長期シリーズ化する、第1作目だけのトーンがシリーズ全体と異なる」という構造は、東京映画/東宝のドル箱プログラムピクチュア『駅前シリーズ』や、ご存知の『ゴジラ』とも同様であり、逆説的に、「<松本清張の世界>はプログラムピクチュアである」とする傍証になりうる。(菊地成孔)

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