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鈴木涼美×島田雅彦×宮台真司『ギフテッド』鼎談【前篇】「娘を使って自己実現を図ろうとする行為は毒親的でありつつ私小説的」

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 加えて、作品を途中まで読んで、吉田恵輔監督の『空白』を思い出しました。父と娘の関係を描いたもので、娘の死後に、二人が或る日の同じ雲を絵に描いていた事実を父が知り、両者が「同じ世界」に入って「一つになる」ことで、娘を初めて弔えたという話です。涼美さんの今回の小説も、同じ構造です。そのことで、叙事的なのに、抒情的な作品の数々よりも遙かに読者の感情を揺り動かします。

 小説のタイトル「ギフテッド」は「才能が与えられた」という意味でもあるけど、社会学者にとってはお馴染みのアトリビュートーー性別・年齢・人種・容姿など自ら選ぶことができずに持って生まれた属性ーーでもある。社会が能力主義化している昨今、人は自分が何をギフトされているのかに、敏感にならざるを得ない。その意識が小説の隅々にまで反映されているのが非常に印象的でした。

 最終的には、母が否応なく選ばされた女の人生というものに触れて、娘は母と「同じ世界」で「一つになる」ことができ、母を悼み、弔うことができるようになるわけです。最近の映画、セリーヌ・シアマ監督の『秘密の森の、その向こう』も、8歳の娘が、森の奥で8歳の母に出会い、「同じ世界」で「一つになる」ことで、家を出た母との間での相互浸透を獲得するという話でした。

 公開中の深田晃司監督『LOVE LIFE』も、「同じ世界」に入れていたはずの夫婦や元夫婦や親子が実は「同じ世界」に入れていなかったという、「同じ世界」に入ることの不可能性ーーにもかかわらず「同じ世界」で「一つになる」ことを願望せずにはいられないというロマン(不可能なことへの願望)ーーを描きます。日本で震災があった十年ほど前から内外にそうしたモチーフの作品が増えています。

 『秘密の森~』も、子ども時代の親に出会って一緒に遊ぶことは不可能なので、やはり不可能性なことのへの願望を描いているのです。不可能なことを願望することは非合理ですが、その願望ゆえに、たとえひとときであれ、「同じ世界」で「一つになる」ことができたという主観的な体験が実存の享楽を与えます。こうした最近的なモチーフを、涼美さんの小説が共有しているのがとても印象的でした。

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鈴木:『ギフテッド』というタイトルを見て、特別な才能を持った天才児についての話だと思った人もいるみたいですけれど、そういうお話ではないですね(笑)。宮台先生の言うように、選ぶことのできない属性という意味合いが強いです。加えて、私は夜の街にいながらギリギリのところで裸にまではならない子には、何か特殊な能力があるように見えていた、という意味もあります。というのも、私は気づいたらカメラの前で裸になっていたから。なぜ彼女たちがギリギリでとどまることができたのか、神から与えられたギフトじゃないとするとどんなことが考えられるか。彼氏が好きだからとか、もともと持っている倫理観とかそれぞれの理由があるはずで、その一つの可能性をこの小説では書いたわけです。

 私の場合、ちゃんとした教育を受けさせてくれた家庭があり、母親は『ギフテッド』の主人公の母親より遥かに強く、なぜ売春が人を傷つけるのかも論理的に言葉でしっかりと説明する人でした。児童文学の研究をしていた人で、たくさんの言葉と愛情で私を育ててくれました。にも関わらず、私は母が嫌がることのベスト3をすべてやって大人になりました。だから、言葉で教え導くことの困難というか、その無力さに対する小さな絶望感も持っています。近年の売春を巡る言説をいろいろと読んでいても、現実の圧倒的な引力を前に、どこか無意味であるように感じてしまうんです。

 『ギフテッド』の主人公が母から与えられたものは、私が母から与えられたものよりもずっと貧相だし、間違っているし、できれば欲しくないものばかりじゃないですか。母親に火傷の痕を付けられるなんて、すごく嫌ですよ。でも、彼女は火傷痕をタトゥーで覆っているがために、脱ぐことには強い抵抗があるし、めちゃくちゃギャラが安くなってしまうから、きっとこの先もAVには出ない。私は、普通に生きていたらみんなが娼婦になるのだけれど、でもそれぞれになにかしらのバリアが張られていて、多くの人はそうならずに生きているのではないかという感覚があります。そして、言葉や論理を尽くしても大したバリアにはならないんです。火傷痕を付けろと言っているわけではないけれど、その悲惨な火傷痕によって売春を思い止まる女性を描くことができれば、逆説的に言葉の無力さを浮き彫りにすることができるのではないかと考えました。

■毒親の私小説性

ーー本作は私小説的な読み方もされていると思いますが、涼美さんはどれくらいそのことを意識して書いたものなのでしょうか。

鈴木:私はあまり私小説の定義がわかっていないんですけれど、本作の主人公の「私」には当然、私の経験に根ざした部分があるので、私小説的と評されることに対する違和感はそれほどありません。ただ、主人公のプロフィールというか生きている条件は私と全く違う、むしろ正反対なので、そういう意味では主人公と作者が非常に強く重なって見えてくる作品ではないのかもしれません。

島田:狭い意味においては、事実関係に忠実に自分の経験を再現したような小説を私小説とみなしたりするんですけれど、あらゆる小説が作者の肉体を通して生まれてくる以上、すべては私小説的であるとも言えます。なので、忠実に事実を書くかどうかは二の次で、語り手と主人公と作者が一致しているか否かが、私小説かそうでないかを分けるポイントの一つだと思います。そして、小説の場合は語り手と主人公を別に立てることができるし、当然、作者と切り離すこともできる。複数の登場人物にその都度、憑依するような形で、多様な視点から特定の人物像を描き出すことだってできます。『ギフテッド』でも、娘と母親という登場人物が出てきたところでまず二重化していますし、さらに母親の過去をよく知る男も登場して、彼から見た母親像も描かれます。小説の中での作者や語りというのは、随時入れ替わっているというか、別のものになり続けていて、その記録こそが小説なんだと思います。鈴木涼美という人は色々とエロいこともしてきて、そこそこ魅力的な女性として存在しているけれど(笑)、書くとなったらジェンダーやジェネレーションを取り替えながら、さまざまな人物に乗り移っていく。そして、それらの人物には鈴木涼美という作者の反映がある。

宮台:日本の近代小説は20世紀に入ってからのもので、自然主義文学の影響を色濃く受けています。物事を美化せずに、なにが現実に実在しているのかを書くということをやってきました。日本の場合、自分が「現実の自分」を持ち出して自分にツッコミを入れるという私小説の形です。そんな偉そうなこと言っている自分自身はどうなのよというツッコミです。2ちゃん的営みの自己適用とも言えます。

 日本の特殊な私小説性の由来は、自分から離れた公共的な口語散文が日本人にはーー正確には日本的な関係性においてはーー使おうと思っても使えないという、近代の理念型から観れば「悪い場所」であることに由来します。涼美さんが仰言った売春についての語りもそうです。涼美さんが《言葉や論理を尽くしても大したバリアにはならない》と仰言ったのは、そのことを指しているでしょう。

 涼美さんの小説は、その意味で、単に私小説的であるよりも、互いに「お前はどうよ」とツッコミ、自分にも「自分はどうよ」とツッコム、という特殊日本的な私小説空間を、再帰的に観察したものです。母が娘の身体に火傷のキズを付けたことで娘が売春を思い留まらざるを得なくなるーーそれを母が意図したーーという設定は、日本的な言葉の無力さの外側にある存在論的時空を示しているでしょう。

 これは最初に話したことに関連しますが、小説に出てくる全ての男が、書割を背景にした影絵として描かれているのが印象的です。男の読者として言えば、この小説を読む体験は、結構マゾヒスティックな感覚を伴います。つまり、女にとって男は影絵に過ぎないという事実上の断言による被虐が救いを与えてくれます。村上龍の『すべての男は消耗品である』という自虐が男に救いを与えるのと同じです。

ーーこの小説にまともに人物として描かれて出てくる男性はほぼ1人ですよね。ホストがチラチラ出てきますけど、背景的な描かれ方でしかなくて。

鈴木:男はほとんど出てこないですね(笑)。私にとってホストクラブは自分の都合の良いものを入れて、自分で買える箱みたいなものなんです。だから『ギフテッド』の主人公にとって都合が良ければそれでいい。男性はそのホストと、不倫して中出ししたお父さんと、お金でお母さんに近づこうとしたおじさんーーつまり買われる男と種付けする男と買う男しか出てこないんです。私はこの小説はデビュー作だと思っているので、自己紹介的な意味も込めて私を形作った表象を散りばめているんですけれど、その結果として、私自身は男性に対する興味をあまり抱いてこなかったというか、男の葛藤とかにそれほど思い入れなく生きてきてしまったのだなということに改めて気付きました。もちろん、個別には好きな男性はいるけれど、男の肉体の苦しさみたいなものには全然興味がないし、勝手にやってくれという感じなんです(笑)。

ーー男性が背景的にしか描かれていない一方で、母親の死に向き合うところはかなり実体験も反映されていそうですね。

鈴木:母親の死というものに向き合った経験というのは割とそのまま生きているので、その部分は私小説的だとは思います。母が亡くなったのは6年前で、小説と同じく胃がんでした。だから、徐々に死んでいく。細かい描写に関しては取材したことが生きている部分もありますが、母の死に関しては自分の経験によるところが大きいです。ただ、主人公の母には性を売っていた過去があるので、その意味では私にも近い。娘も母も、どちらも私と重なる部分はありますね。

島田:僕は実際の涼美さんのお母様を知っていて、亡くなったときに偲ぶ会にも出席しました。だから、小説のお母様が実際のお母様とどう違うかがよくわかるんです。実際のお母様は教育的だったし、リベラルな感覚も持っていて、涼美さんもこの小説の主人公と比べるとずっと良い家庭のお嬢さんだった。私小説的な側面はありつつも、涼美さんは事実からはあえて切り離して書いているんですね。

 ただ、この小説のみならず、母親が自分の理想やなしえなかった夢を娘に託すようなケースはよくありますよね。そして、娘という存在を使って自己実現を図ろうとする行為は毒親的でありつつ、私小説で理想の自分を描くという行為とかなり近いように思います。

宮台:涼美さんの小説を読んで、長い歴史の中で母親が娘たちをどう見てきたのか、その流れの中で自分の母親が自分をどう見ていたのか、ということに強い関心があるのだと感じました。その関心には、日本を超えた普遍的な合理性があります。ジャック・ラカンに言わせれば、男同士の相互行為と違って、女同士の相互行為は必ず〈女〉という生態心理学が言う「不変項」を参照するからです。

 不変項の概念は、プラトンのイデア概念を参照しています。僕らが現実に体験する正三角形は、黒板上に描かれたものであれ、紙に印刷されたものであれ、必ず歪んでいる。そもそも輪郭線に太さがあることが間違いだし、仮に正しい正三角形が描かれていてもどの角度から観るかで正三角形には見えないはずです。でも幾何学の授業では、現実のヘタレた描像を体験する際、不変項を想像するわけです。

 父親が息子を育てる場合、「勉強して良い大学に入って、良い会社に入って、良い人生を送れよ」みたいな「昭和人生すごろく」みたいな感覚に覆われがちですが、母が娘を育てる場合、より複雑な感覚が働きがちです。それは構築主義が言うような本来どうとでもありうるジェンダーロール(性別役割)の文化的な習得には、還元できないということが、ラカンが言いたかったことです。

 具体的には「昭和人生すごろく」みたいな単純なライフコースではなく、立ち居振る舞いやオーラまで含めた様々な細部が、〈女〉を参照した干渉の対象になってくる事実があります。だから、島田さんが「母の娘育ては毒親的であり私小説的だ」と指摘されたように、社会学的に見ても母と娘の物語は〈女〉を参照したマウンティング合戦になりがちなので、普遍的に私小説に向いていると言えます。

──そもそも親という存在が、私小説としての教育をしてしまっているという。

鈴木:それはすごく思います。親は関係を維持するのも、関係を断つのも大変で面倒くさいものですよね。娘を教育して育てることで自己実現をしようとすると、途端に毒親になってしまう可能性がある。(後篇に続く)

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