東京…特に港区は、ウソにあふれた街。
そんな港区を走る、すこし変わったタクシーがある。
ハンドルを握るのは、まさかの元・港区女子。美しい顔とスタイル。艶のある髪。なめらかな肌…。
乗客は皆、その美貌に驚き、運転席の彼女に声をかける。
けれど、彼女と話すには、ひとつルールがあった。
「せめて乗車中はウソ禁止です」
乗客たちは、隠れた本音に気づかされていく――。
▶前回:10回デートをしても、手を出してこない男。悶々とした女は、ある行動に出る…
外苑前~五反田 優佳(30歳)と辰哉(31歳)
22時。
辰哉と優佳を乗せたタクシーは、外苑西通りを南に向かって進んでいた。
辰哉はスマホを片手に、先ほど撮ったディナーの写真を見ている。
「これ美味しかったよね」
「ああ、これも最高だった」
写真をスライドしながら、ゆるんだ表情でつぶやく。
しかし、数十分前までレストランで楽しそうに話していた優佳は、口を閉ざしたままだ。
「…優佳。さっきからどうしたの?」
心配になった辰哉が優しい声で問いかけると、ようやく優佳は口を開く。
「実はね。辰哉にずっと黙っていたことがある」
深刻な顔をしている優佳を見て、辰哉の顔色が変わった。
「…なに?」
「あのね。私、今の職場で働く前は『看護師として働いていた』って言ったと思うんだけど、あれ…実は…ウソなの…」
タクシーは、西麻布の交差点の赤信号で、ゆるやかに停車する。
「辰哉と知り合う直前まで、この辺りで夜の仕事をしていたんだ」
美容クリニックで働く優佳と、スポーツ用品メーカーで働く辰哉は、ともに30歳。
友人の紹介で半年前に知り合い、3ヶ月前から付き合っている。
今夜は、交際3ヶ月記念のディナーだった。
青信号になり、タクシーが交差点を抜けていくと、優佳は口を開く。
「看護学校には通っていたけど、卒業しないまま夜の仕事を始めたの。看護学校は、そのまま卒業しなかった。だから看護師の資格は持ってない。
それに、今いるクリニックも看護師じゃなくて、医療事務として働いている。ずっとウソついていて、ごめん」
戸惑う辰哉を置き去りにして、優佳は淡々と続けた。
「正直、夜の仕事をしていたころは、男遊びも激しかった。今の私からは想像もできない生活をしていたと思う」
辰哉は、どんな言葉を返せばいいのかわからず、しばらく無言になる。
タクシーが広尾駅を通過する頃に、ようやく言葉をひねり出した。
「なんで今になって話そうと思ったの?」
「それは…真剣な恋だから」
窓の外を見つめたまま優佳は答えた。
「この3ヶ月間、ずっと辰哉を騙してるような気がしてた。ううん。実際、騙してた」
出会った当初、優佳は「看護師として忙しく、男性とは縁がなかった」と説明していたのだ。
「フラれても仕方ないと思ってる。でも辰哉への気持ちは本物だから、本当のことを伝えなきゃって思ったんだ」
優佳はタクシーに乗って以来、初めて辰哉の目を見つめる。
「今までウソついていて、ごめんなさい」
「そんなのいいよ。ぜんぜん気にしない」
真剣な優佳の表情に、辰哉は即答した。タクシーは白金トンネルに入っていく。
「…実は、俺も、昔は結構遊んでたからさ。20代なんて、遊んでなんぼみたいなところあるじゃん」
トンネルを出たあとも、辰哉は明るい声で続ける。
「優佳が真剣な顔して話し始めたからビビったけど、たいしたことじゃなくて、良かったよ。
…あっ、たいしたことじゃないっていうのは失礼だよね。正直に伝えてくれてありがとう。でも本当に気にしてないから大丈夫」
タクシーは最初の目的地、池田山に到着した。
池田山には、優佳が暮らしている実家マンションがある。
「今実家に住んでいるっていうのは、ウソじゃないから」
「うん、わかってるよ。今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
優佳は笑顔を見せて、ひとり、先にタクシーを降りる。その笑顔の奥にある本当の感情を、辰哉は読み取ることができなかった。
「次は五反田を目指せばよろしいですね?」
若い女性の運転手が、辰哉に声をかける。
「はい。お願いします」
いつもなら、デートの最終目的地は、五反田にある辰哉の部屋だ。
しかし今夜の優佳はなぜか「今日は家に帰るから」と言った。
― もしかしたら、今日フラれることを覚悟していたのかな。
そう思った辰哉は、急に不安に襲われる。
― 今の返事、彼女にどう伝わっただろう?精一杯の強がりがバレていたら、どうしよう…?
タクシーが走り出すと、辰哉は運転手のネームプレートを確認してから、声をかける。
不安が募って、誰かに話を聞いてもらいたくなったからだ。
「今、僕の彼女がした話、柊さんはどう思いますか?」
「『どう思う』というのは?」
柊舞香は、静かに聞き返す。
「…いえ、何でもありません」
急に恥ずかしくなって辰哉は口をつぐんだ。だが、すぐに口を開く。
「やっぱりどう思うか、教えてください。僕たちは、この先うまくいくでしょうか?」
「申し訳ございませんが、私にはわかりません」
舞香の事務的な返事に、ふたたび恥ずかしさが込み上げてきた。
「そりゃそうですよね。今の話を聞いているだけじゃ、僕たちがうまくいくなんてわからないですよね…」
「ただ一つだけ、大変失礼ながら、私にわかったことがあります。的外れかもしれませんが、それで良ければお伝えします」
「…何ですか?」
「お客様がウソをついているとき、私はそれに気づいてしまうことがあるんです。今もまさにお客様がウソをついていると、私にはわかりました。
でも、お客様。せめてこのタクシーに乗っている間だけはウソは禁止でお願いします」
辰哉はギクリとする。
舞香の指摘どおり、辰哉は優佳に、ウソをついたからだ。
「…柊さんのおっしゃるとおりです。『俺も20代のころ遊んだ』というのは、ウソです。
むしろ恋人はひとりもいませんでした。優佳が初めての恋人なんです」
だからこそ、優佳のカミングアウトはショックだった。
― 男性とほとんど付き合ってこなかったと彼女が言っていたから、恋愛経験の少ない僕でも気兼ねなく付き合える気がしていたのに…。
ただ、今までに伏線がなかったわけではない。
優佳は事あるごとに「3週間、3ヶ月…3がつく期間で恋人は別れやすい」なんて発言をしていた。
きっとこれまでの男とは、付き合って3ヶ月で別れてきたのだろう。あるいは3週間かもしれない。
男性経験が少ないと言ってはいるが、実際はそんなことはないかもしれない…そんなふうに勘ぐったこともあった。
― 今日は、交際3ヶ月の記念日。優佳は、この先も付き合いは続くと判断したからこそ、このタイミングでカミングアウトしてくれたんだろうな。
その優佳の勇気には、応えたかった。
「正直、なんて返事をすればいいか混乱してしまって。咄嗟に出たのが『俺も20代のころは遊んだ』ってウソでした」
「優しいですね」と舞香は言う。
「…これが優しさですか?正直に話してくれた優佳に対して、僕はウソをついたんです。優しさなんでしょうか」
問いかけたつもりだったが、舞香から返事はない。
息が詰まるような思いがして、辰哉は独り言のようにつぶやいた。
「僕たち、この先うまくやっていけるのかな…」
恋愛経験の乏しい辰哉は、ただただ困惑するしかなかった。
タクシーは、長く走ってきた外苑西通りを左折。山手通りに入れば、五反田の辰哉の自宅マンションはもうすぐだ。
「この先うまくやっていけるのか、ですか」
唐突に舞香が口を開く。
「その問いに答えるのなら、イエスです。やっていけます。おふたりなら、きっとうまくいきます」
言いにくい過去をカミングアウトする素直な女性と、それを受け止めながらも彼女を気遣う優しい男性。直すべきところなどないと、舞香は微笑んだ。
「男女の交際というのは、時に思いもよらないことが発生します。
そのとき、今夜のお客様のように相手と同じ目線になる優しさがあれば、どんなことが起きても乗り越えられると私は思います」
タクシーが目的地に到着し、運転席の舞香は振り返る。
「私を含めて多くの男女ができないことを、お客様はできています。恋愛経験の乏しさなんて関係ありませんよ」
翌日の夜。
辰哉はあらためて優佳と会い、前夜のタクシーで「俺も遊んでいた」とウソをついたことを謝罪した。
「それぐらい気づいてたよ」
優佳は寂しそうに笑った。
「辰哉にウソをつかせて、申し訳ないと思ったもの」
「…ごめん」
「謝らないでよ」
優佳の笑みが消える。
辰哉は、昨夜タクシーを降りたあとに抱いた後悔について話すことにした。
「なんか、咄嗟にウソをついたせいで『夜の仕事』に偏見があるみたいになった気がして…それについても申し訳ないと思っている。
俺は本当に、なにも気にしてないから。今こうして優佳が俺と付き合ってくれて、それだけで幸せだから」
辰哉を見つめていた優佳が、ぷっと吹き出す。
「辰哉って真面目すぎ」
寂しさのない、いつもの優佳の笑顔だ。辰哉もつられて笑った。
優佳の笑顔があれば、この先どんなことが起きても乗り越えられる。
3年でも30年でも300年でも優佳と一緒にいたいと、辰哉は願った。
▶前回:10回デートをしても、手を出してこない男。悶々とした女は、ある行動に出る…
▶1話目はこちら:港区女子を辞め、運転手に転職した美女。きっかけは?
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その美女は深夜、クズ男に呼び出されて舞香のタクシーに乗った。
ウソの職業を伝えたまま、交際3ヶ月。女は、タクシーの中で突然真実を打ち明け…
2022年9月30日