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【クイズ】成功するには「才能」なんて関係ない? 世界的ベストセラーの原点を読む

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Q:ナイキの有名なコマーシャルで、マイケル・ジョーダンが口にする台詞の<>に入る言葉を答えなさい。 

「九〇〇〇回以上シュートをミスした。三〇〇回ぐらい負けた。勝利を決めるシュートをまかされて、<>回はずした」 

1:二六〇〇 
2:二六〇 
3:二六 
(※クイズの答えは3ページ目にて!)

「才能神話」を鮮やかに解体する本

 人間にはもともと決定づけられた「才能」などなく、その成功はすべてが努力、そして多少の運によるものだ――。そう断言されると、違和感を覚える人も多いかもしれない。オリンピックの出場選手は生まれつき身体能力が高いのでは? 一流大学を首席で卒業するようなエリートは、もともと知能指数が桁外れなのでは? しかしそんな考えに真っ向から異論を唱え、人間の能力は後天的に伸ばせると主張するのが本書『才能の科学』(マシュー・サイド 著、山形浩生・守岡桜 翻訳、河出書房新社)だ。 
 
 著者のマシュー・サイド氏とは、どのような人物なのだろうか。もともとは卓球選手として活躍し、イングランドの国内選手権ではシングルスで4度優勝、オリンピックにも2回出場している。また、その活躍はスポーツの分野だけにとどまらず、オックスフォード大学哲学政治経済学部を首席で卒業し、現在は英紙『タイムズ』のコラムニストとして活動するとともに、スポーツマーケティングの会社を経営している。 
 
 ……そういったプロフィールだけを見れば、以下のように思う人も多いだろう。「なるほど、たしかにこのような多方面での成功をおさめたのは裏に並々ならぬ努力があったのだろうし、「才能ではなく努力」と主張する本を執筆する背景もなんとなくはわかる。でも、そんな成功をなしえたことのない私から見れば、あなたには「才能」があったから成功したとしか思えないんですけど」と。自分のことを棚に上げるつもりはなく、じっさいに私自身も、『才能の科学』を読む前はそんな感触を覚えていた。 
 
 しかし、思わぬことに、このような「しかし自分には無理だ」という考えは、本書を読む過程で次第に崩されていった。 

 なぜだろうか。まずひとつには、サイドが自分の経験を精神論で判断せず、客観的に「才能」を分析するための一サンプルとしてとらえている点だろう。本書では著者自身の経験も多く語られるが、サイドはまず、自身が卓球選手として成功したのは、あくまでも偶然と努力の重なり合いに過ぎなかったことを序盤で示唆する。8歳の時に両親がたまたま正式な試合用の卓球台を買ってくれて、常時卓球をすることができたこと。サイドに負けず劣らず卓球が好きになった兄がいたこと。地元の先生が卓球指導に熱意を燃やしていたこと。入会した卓球クラブにのちに全英トップクラスとなる選手たちが多く在籍したこと、などなど。その上で少年時代、何千時間もの練習をこなしたことで(本書ではたとえば、最高のバイオリニストたちは20歳になる前に平均10000時間の練習を積んでいたことが語られる)、その道での成功を得られたことを語る。 

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 そして、このような「偶然」は過去の神童たちにも見られるという。10歳までに多大な曲を作曲したモーツァルトは、その父親が優れた音楽の教育者であり、6歳になるまでにすでに3500時間ほどの練習を積むことができていた。タイガー・ウッズも同様に、1歳を迎える前に息子にゴルフクラブを与え、4歳で専門のインストラクターをつけるような父親の熱心な教育があったことから、若くしての成功につながったことが示唆される。 

 もっとも、これだけならまだ反論の余地はあるだろう。「機会に恵まれ、また練習を重ねてきた人の中でも、差は出てくるはずだ。それは才能の差じゃないのか」と。そうした反論を想定してサイドが語るのは、ひとつには練習の効率性である。サイドは「目的性訓練」という言葉でトッププロたちの練習を語る。たとえば、世界でもトップクラスのバスケットチームにおける「エキストラ」を使った練習。バスケのディフェンスにおいては、本来なら1人の選手を1人の選手がマークすることが基本だが、強い選手に対しては「エキストラ」のボランティアを2人目のマークとして投入し、その突破を難しくする。選手は試合に集中することをより求められ、それがたしかな技術の向上につながったことが示唆される。また、サッカー王国として知られるブラジルの多くの選手は、まずサッカーの前にフットサルに触れることが多いという。フットサルのボールはサッカーボールより小さくて重く、扱うにはより技術を必要とする。このボールを使って練習を続けることがサッカーの上達に奏功したという、ペレやジーコなどの一流の選手たちの証言が紹介される。


 もうひとつは、選手の心理の問題である。軸となるのは「プラシーボ効果」。実際には効果がないものでも、効果があると信じることで何かしらの改善がみられるという、一般にもある程度は知られた心理学用語だが、スポーツにおいてもプラシーボ効果はたしかな強みを見せる。たとえば、ある信仰を持つ選手は、試合に臨むときに常に祈りを捧げ、そのおかげで安心感を得ることができたと語り、モハメド・アリやジョナサン・エドワーズも同様に、信仰から恩恵を受けたという証言を残している。また、信仰とは別の次元で、自己の力に確信を持ち、「負けるかも」といった疑念を押さえることの重要性も語られる。本書ではサッカーの名監督として知られた、アーセン・ベンゲルの言葉が引用される。「できる限りのパフォーマンスを発揮するには、論理的な正当化をはるかに超える強さで信じるよう自分に教えてやらなければならない。この非合理的な楽観能力を欠く一流選手はいない」。実際に非合理的な信条でも、十分な確信があればパフォーマンスを高められることが、心理学の実験によって証明されたことにも言及される。 

 そして、才能ではなく偶然や努力の重要性を語る一方で、サイドは努力を軽視し、安易に結果を得ようとする姿勢や、人種や遺伝子に成功の「正解」を求めようとする態度についても警鐘を鳴らしている。 

 たとえば、ドーピングや遺伝子改良の問題である。東ドイツの女子砲丸投げの選手であったハイジ・クリーガーのエピソードが、本書では紙数を割いて紹介される。ハイジは「ビタミン剤」と称された、筋肉を増強し、男性的な特徴をもたらす強力な処方薬を長年にわたって投与されていた。やがて欧州選手権で優勝という実績を残すものの、自身の体への疎外感と慢性的な不調に耐え切れず、引退してしまう(そののち、ハイジは性別適合手術を受け、男性となる)。やがてこのドーピングは東ドイツの国家的なプロジェクトとして存在しており、10000人以上の選手が薬を投与されたことが明らかになる。サイドは能力を向上させる人工技術自体は必ずしも否定しないものの、人の安全を犠牲にドーピングを行うような姿勢には、一貫して否定的な態度を見せる。 

 また、「黒人」は生まれつき長距離走に長けているという言説を引き、こうした一般化の暴力性を喝破するとともに、その論理的欠陥を指摘する。長距離走での優位性は「黒人」の現象ではなく、ケニアのナンディ地域出身の選手に集中していること→その地域が高地であり、空気の薄さが住民たちの体の耐久性を高めたこと→高地の中でも公共交通機関が少なく、子どもたちは通学においては日常的に走る必要があったこと……と順を追って背景を解き明かしていき、悪しき遺伝子神話を慎重に崩していく。 

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