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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【19】馬場VS木村“頂上決戦”の思わぬ行方

アサ芸Biz

 誰もが国際には全日本の選手が出場、新日本は単独で開催になると予想していたが、新日本が思わぬ動きに出た。「シリーズの開催時期が重なるので主力選手は参加できないが、星野勘太郎と山本小鉄のヤマハ・ブラザーズなら出場させる用意があります」と、国際に協力を申し出たのだ。

 春にはフリー宣言という形で剛竜馬を新日本に引き抜かれている国際だが、この申し入れは嬉しい誤算。交換に新日本にマイティ井上とアニマル浜口を送り込むことを約束した吉原社長は「国際のリングなら3団体の選手が揃えられる」という夢を描いたが、ここにストップをかけたのが馬場だった。

「新日本の選手が出場するならば、ウチの選手は出せない」と申し入れたのである。馬場がこうした行動に出たのには理由があった。

 2月の「三軍対抗戦」の2.18蔵前国技館大会で馬場vsラッシャー木村の頂上対決が行われ、馬場に足4の字固めを決められた木村がエプロンまで上半身を出してロープエスケープしたが、レフェリーの芳の里が10カウントを数えて馬場がリングアウト勝ちした。この判定を巡って国際を放映する東京12チャンネルの担当者と吉原社長が揉め、ここから全日本と国際に距離ができてしまったからだ。

 馬場の強い姿勢に吉原社長は選択を迫られた。新日本が派遣してくれるのは中堅のヤマハだけだが、全日本からは主力選手の出場が見込まれる。

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 果たして、吉原社長は9月21日、新日本の品川大会を訪れて猪木に選手交流の白紙撤回を申し入れ、全日本からジャンボ鶴田、ロッキー羽田、グレート小鹿、大熊元司、ミスター・サクラダ(ケンドー・ナガサキ)の5選手が参加した。

 しかし、新日本は国際との交流を諦めなかった。国際の11月25日の蔵前国技館に元国際のストロング小林と若手の小林邦昭を派遣。小林はミスター・ヒトにリングアウト勝ち、小林は寺西勇のジャーマン・スープレックスに敗れた。

「日本リーグ争覇戦」はラッシャー木村がプロフェッサー・タナカを撃破して優勝。全日本との関係にピリオドを打った国際は、吉原社長が浜口を連れて新日本の12月14日の大阪大会のリング上で宣戦布告。猪木がマツダを倒して「プレ日本選手権」に優勝した12月16日の蔵前国技館で長州力&木戸修vs浜口&寺西が行われて30分時間切れになった。

 そして翌79年から新日本と国際の対抗戦が始まり、2月5日には両団体合意のもとに自民党副総裁の二階堂進が初代プロレス・コミッショナーに就任する。

小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。

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