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北朝鮮で生まれ育った男が“脱北”するまで「息をすることだけが自由だった」

日刊SPA!

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北朝鮮で生まれ育った男が“脱北”するまで「息をすることだけが自由だった」

 小泉純一郎元首相が訪朝し「日朝平壌宣言」を発表したのが’02年。それから20年目となる現在も、拉致問題をはじめとする日朝関係に何ら進展はない。そのさなかに登場した日本発の脱北YouTuberキム・ヨセフ氏は、我々に何を語りかけるのか。

◆命がけで自由を手にした配信者

──’09年に脱北し、韓国での生活を経て’13年に来日しましたね。その後YouTubeを始めたきっかけは何でしょうか?

キム:’20年にドラマ『愛の不時着』が大流行したとき、北朝鮮への誤ったイメージが広まったことに危機感を覚えました。もちろん、ドラマなので美化や誇張はされていますが、自分が生まれ育った情景とは全く異なる。そこで、使命感に駆られて始めました。それまでは脱北者であることも明かさず、ひっそりと生きていくつもりでした。

──チャンネルでは衝撃的な生い立ちや日本で受けたカルチャーショックなどについて配信し、現在、登録者数が11万人に迫ります。反響の大きさをどう感じていますか?

キム:当初は登録者数1000人ほどの段階で「ずいぶん増えたな」という実感はありましたが、ここまでになるとは思わなかったです。ただ、登録者数自体より、確実に応援してくれるファンの数が重要。時には悪意や批判も受けますが、ほとんどが温かいコメントです。「勉強になりました」と言われますが、逆に僕が日本で学ばせていただいているので感謝しています。

──一方でよくない反応とは?

キム:「拉致問題が解決していないのになぜ日本に住んでいる」などですね。でも、北にいた頃は知る由もなかったんです。

◆初回の脱北に失敗し、極寒の留置所へ

──そもそも、脱北の経緯は?

キム:僕は2度脱北して、初回は失敗しているんです。’90年代前半から「苦難の行軍」と呼ばれる歴史的な食糧難で、国が大混乱に陥りました。我が家も例に漏れず、7人家族のうち母と姉3人が餓死。父もどこかに消え、10歳で弟と路上生活を始めました。その後、僕だけ祖父母に引き取られ18歳のとき、死んだとばかり思っていた父がブローカーを手配してきたのです。それで1度目の脱北を試みましたが、中朝国境で捕まり、白頭山の留置所に入れられました。

──留置所ではどのようなことがあったのでしょうか?

キム:冬はマイナス26℃にもなる極寒の中、息をすることだけが自由といった環境でした。10畳くらいの部屋に脱北者がそれぞれ男女別にすし詰めにされ、一日中あぐらをかかされる。少しでも私語を交わすと、アルミのパイプで殴られました。トイレまでも監視がつき、拷問のような取り調べを何日も受ける。僕は運良く、3か月後に出ることができました。

──そこから23歳で2度目の脱北を試みますが、その間は何をしていたのでしょう?

キム:日常生活に戻って、機を窺っていました。北朝鮮には「座って本を読む貴族より、動き回るバカのほうがマシ」という諺があるんです。それに初回脱北時に見た、中国側の開放的な光景が忘れられなかった。

──恐れはありませんでしたか。

キム:恐れというより、覚悟はありました。失敗したら次こそは家族もろともただでは済まないため、自害用の殺鼠剤も持参して。決行した日は、育ててくれた祖父母や親戚に迷惑がかからないよう、何も言わずにいつもどおり家を出ました。

──そこからのルートは?

キム:中国の親類の家に身を寄せ、先に脱北していた父と再会しました。そして、父の手引きでベトナムとの国境を越え、メコン川を渡りカンボジアの韓国大使館に辿り着きました。

──お父さんとは再会できましたが、弟さんとは?

キム:祖父母が「一人しか面倒を見られない」と言ったとき、弟は「僕は大丈夫だから、兄ちゃんが行きなよ」と言いました。祖父母も長男の長男である僕を重視した。しかし僕は、何が何でも弟と離れるべきではありませんでした。その後、弟は行方知れずになってしまったからです。あれ以来、一日も弟を忘れた日はありません。

──体制が180度違う韓国での生活はどんなものでしたか?

キム:すべてが統制されていた状況から、いざ選択権を与えられるとどうしていいかわからなくなる。脱北当初は、Tシャツ一枚を買うのにも躊躇しました。悩んだ末、10枚10万ウォン(約1万円)程度のものを買って高く感じて激しく後悔したり……。ただ、僕は明らかに豊かさを求めて脱北しましたが、今では物欲はほとんどありません。趣味のためにいいカメラを買ったりはしますが、贅沢はしない。イデオロギーと生活の自由は得ましたが、労働の対価より幸せの可処分時間を増やすほうが重要だと考えるようになりました。

──脱北後は、キリスト教に入信されていますね。

キム:2度目の脱北途中、不安を紛らわすために一心不乱に「何か」に祈りを捧げていたし、思えば道中には教会が必ずあった。それで逃避行の最後の地であるカンボジアで確信に変わりました。これまでの苦労は、神から賜ったものなのだと。

◆日本に来て、自分の殻を破ることができた

──日本に来たきっかけは?

キム:北にいるときから、日本には興味があったんです。祖父が元日本軍で、在日朝鮮人との交流を通じて日本製品が身の回りにありましたし、日本の小説も読んだことがあります。それで、日本語を学びたかったのが第一の理由です。また、日本に住む義兄に会うために来た旅行での印象が良かった。それで翌年すぐに留学の手続きを取り、日本語学校を経て日本の大学を卒業後、就職しました。

──初めての日本生活はどのようなものでしたか?

キム:初めて住んだのは東京・高田馬場の家賃4万円台のアパート。お金がなさすぎて業務スーパーの33円の豆腐でしのいだこともあります。30歳で大学に進学してからは、アルバイトをかけ持ちして一日5時間未満しか寝られなかったのですが、10歳も離れた学友との交流はそれなりに楽しかったです。

──日本で影響を受けたことはありますか。

キム:北にいるときは周囲に気を使っていて、意思的な行動は取れなかったんです。もともと引っ込み思案で、声もまともに出なかった。そんな自分の殻を破るきっかけになったのが、日本の大学に通っている頃にしていた居酒屋のアルバイト。そこでは大声で音頭を取る必要があったんです。「はい、喜んでー!」とか。それを機に度胸がつき、おかげで今ではカラオケも歌えるようになりました。

◆日本に来て初めて、多様性を知った

──逆に、違和感を覚えたことはありますか?

キム:社会問題の背景をそれほど掘り下げず、苦痛から逃避する心理があるように見えました。あと、風俗文化は独特ですよね。キャバクラもなぜ酒の場で女性と話すだけで高いお金を払わなければならないのか。自分の場合は、このお金があれば家族が餓死することはなかったのに、弟を救えたのに……と思ってしまう。

──日本の女性についてはどう思いますか?

キム:日本人女性とは大学時代に短期間付き合ったことがあります。価値観の違いなどで別れてしまいましたが……北では、「日本人妻を娶(めと)ってパリで暮らすことが男として最高の人生」という俗説があります。自由な暮らしと従順な妻という意味ですが、あくまで印象論。日本人女性は、北朝鮮や中国と比べて「可愛い」というイメージが確かにあります。もちろん、人それぞれだと思いますが……。あと、北朝鮮では男同士で集まると下ネタを言うのですが、それは途上国だからだと思いきや、日本も同じだったので驚きましたね。しかも内容も似通っていて……その他においても、社会主義体制と似た部分が少なからずある。

──というのは?

キム:僕の新入社員研修では社訓と「行動原則10か条」というものを覚えさせられたのですが、それは北朝鮮で「党の唯一領導体系」を大声で諳んじさせるやり方と似ていました。それでも日本は半島に比べて、一人ひとりの意見が違っていても良しとする風潮があるので、人生で初めて「多様性」を実感しているのは事実です。

◆日本と社会主義体制は、似ている部分がある

──8月に上梓した著書では、「生きることは学び」と書いています。キムさんなりの学びと、苦労の乗り越え方とは?

キム:生まれては先人から学び、老いては若きに学ぶ。僕は北でできなかったことをやり尽くしたので、いつ死んでもいいと思っていますが、それまでは一生勉強です。僕にとって苦労とはコンビニ飯よりも手の込んだ料理を選ぶようなものです。困難は、避けるのではなく笑いながら向き合っていきたい。人生はバイキングのように、好きなものだけ選んで食べることはできないので……そして、辛い過去は鏡となり、誰かを励ますこともできると思うんです。

 苦難を経て俯瞰の境地に至ったキム氏。日朝間の荒野を、明日も旧約聖書のヨセフのごとく進んでいくのだろう。

【Kim Joseph】
1985年、朝鮮民主主義人民共和国・咸鏡南道生まれ。10~11歳にかけて家族全員と離死別。18歳のとき1度目の脱北に失敗、2度目の脱北で韓国入国、2013年に来日。日本の大学を卒業後、会社員として働きながら2020年、YouTubeチャンネル「脱北者が見た北朝鮮」を開設。著書『僕は脱北YouTuber』(光文社)

取材・文/安宿緑 撮影/加藤慶 協力/鶴橋商店街振興組合

―[インタビュー連載『エッジな人々』]―

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