top_line

【 最新ニュースをアプリでサクサク読むなら! 】

終戦の日の思い出…「ラジオを聴いた大人たち」はどのように興奮していたか?

幻冬舎ゴールドライフオンライン

×

かつて、国内開発を目指したFSX(次期支援戦闘機)。現在、日米共同開発が進められている。本書は、著者の終戦の日の思い出から、航空自衛隊の技術、航空産業、そして国防への思いが綴られている。航空自衛隊所属の技術者として歩んできた著者にしか書くことができない書であると言える。現実の社会情勢も踏まえ、国防のあり方を分析し、FSXなどの知見を現役技術者、自衛官に継承する一冊。※本記事は、山田秀次郎氏の書籍『コントレイル』(幻冬舎ルネッサンス新社)より、一部抜粋・編集したものです。

昭和二十年八月五日あとさき

避難

六日午後になって、(日高村)高橋の祖母の実家に身を寄せました。祖母の記録によれば、高橋地区でも二軒が戦災を受け、その内の一軒は祖母が荷物を疎開した親戚であったとあります。

さて避難先は和霊さん(神社)のお祭りなどでたびたび出かけた家でもあり、大伯父やその家族などともずっと親しんでいたので違和感はありませんでしたし、庄屋だったので家作は大きく我々の家族は別棟に寝起きしたと思います。しかし、全くの着の身着のままで逃げ延びたわが家族にとって、しばらくは居候の状況だったに違いありません。

それまでは、お腹が減れば「ハラヘッタ!」と母や祖母にまとわりついていましたが、ここではこの家の食事時まで待たねばなりませんし、たらふく食べることは憚られました。子ども心にもそれは分かっていました。風呂だって順番を心得なければなりません。妹や弟が愚図ったら私だって連帯責任のようなものを感じていました。

広告の後にも続きます

何かにつけて、母や祖母の気持ちも忖度せねばならないと思っていました。短期間であったような気もしていますが、私が家族以外の人たちとの関係とか距離感とかを、つまりややませた言い方をすれば世間というものを意識した最初の記憶です。

風呂場に敷設されている小部屋で家族だけでにら粥を食べたことがあります。美味しかった。何故か私が泣き、母が泣かんでもええと笑いかけました。記憶の底にへばりついて離れない一コマです。この時のことを思うと何故か今でも目頭が熱くなるのです。

ビルマから届いた手紙

この疎開先へ、出征していた母方の叔父のビルマ(現在のミャンマー)からの手紙が届き、大人たちが大声で騒いでいたこと、その中に兄と私宛の郵便為替が入っていると聞かされた記憶があります。後に知ったところではこの手紙のビルマ発信の日付けは分かりませんが、疎開先へ届いたのは八月十日のことだと言います。

焼け跡には、おそらく二、三日中には避難先を知らせる標識などを立て、あるいは代行の郵便局への届も出していたかもしれません。しかし、今治が壊滅的な被害を受けた中で、五日後に徒歩で一時間はかかる避難先へ手紙が回送されたことは驚きです。

さらに付け加えるなら、この手紙が日本へ運ばれたであろう時期とその頃の東シナ海域の戦況や国内の輸送機関の状況などをあれこれ想定してみると、これは奇跡の手紙ではないかという気がしてなりません。どういう仕組みがあったのか、日本の郵便事業への信頼とともに郵便局員の使命感には頭が下がる思いです。

  • 1
  • 2

TOPICS

ジャンル