昨季は日本球界でもメジャーの影響が見て取れた。かつてメジャーでも活躍した高津臣吾が監督としてヤクルトを日本一に導いたのである。高卒2年目の奥川恭伸の中10日先発起用など、アメリカの野球を吸収したうえで日本野球と合致させた結果だった。
各球団の首脳陣にもMLB経験者が増え、これまでとは異なった野球を展開しているのも、メジャー挑戦の副産物と言えるだろう。海を渡った日本人選手たちが何を学び得てきたかは、彼らの成功と同じくらいに大事にしなければいけない。
「ずっと弱かったチームに入って、僕は最下位も優勝も味わった。レイズの新たな球団史が始まった基礎の中に入れたのはいい経験でした」
そう語るのは、2007年に海を渡り、翌年レイズの創設以来初のリーグ優勝に大きく貢献した岩村明憲だ。
日本では「強打の三塁手」として鳴らした岩村のメジャー挑戦は、底辺からのスタートだった。当時はまだチーム名がデビルレイズだった頃で、強豪ひしめくアメリカン・リーグ東地区にあって最下位が定位置と言える典型的な低迷球団だった。
「自分の運命に感謝しているんですけど、持っている星がそういうものだったと思う。僕は王道ではないんです。イチローさんや大谷くんとは何か違う形なんです。弱いチームから強いチームになるそのサクセスストーリーを経験できたのが良かった」
1年目は苦しかった。開幕して3ヵ月ほどで、チームには早くも白旗を上げる雰囲気が漂ったのだという。ビッグクラブではないと理解していたとはいえ、岩村にとっては茨の道の出発だった。
個人としては開幕から調子が良く、最初の18試合で打率.339。だが、4月下旬に脇腹を痛めて故障者リスト入りしてしまった。このように、きっかけをつかみかけていた時の痛い離脱もあったものの、最終的には主に1番を務めて123試合に出場し、打率.285、7本塁打、OPS(出塁率+長打率).770という成績で戦力の中枢となった。
当時のデビルレイズは再建期。後にMLB屈指の三塁手へと成長するエバン・ロンゴリアらが、トップ・プロスペクトとしてマイナーに控えていた時期だった。
そんなチーム事情から、終盤には岩村の立ち位置にも変化が訪れる。シーズン最終戦となった162試合目、スタメン表を見るといつもとは違うポジションが提示されていた。
「ポジション番号が『4』と書いてあって、何かの間違いじゃないのかと思ったんですよ。そしたら、ジョー(・マッドン監督)に呼ばれ、『来年から三塁はロンゴリアが守る。アキは二塁に回ってほしい』と言われたんです」
それまで、二塁の練習などしていなかった。しかもその日はもともと、選手たちの疲労を考慮して試合前練習が休み。岩村はぶっつけ本番で二塁を守った。
「セカンドは中学の時以来、守ったことがなかった。練習がないから、誰もいないところでコーチにノックを打ってもらいました。最終戦ですよ。もうすぐ日本に帰れると思っていたので、『なんでこんなことせなあかんねん』と思いながら、やっていましたね」
ただ、それでも岩村は急なコンバートを受け入れた。ヤクルト時代の03年にベテラン選手を三塁で使いたいからと外野へのコンバートを打診された時、「3年連続ゴールデン・クラブですよ(注:00~02年に受賞。その後04~06年にも受賞している)。なんで、僕が譲らないといけないのか。外野やるくらいなら野球をやめる」と受け入れなかった男が、だ。
この時は新聞にも大きく報じられるほど頑なに拒否したのに、メジャーに舞台を移した後は素直に首脳陣からの打診を受け入れた。それもすべては、岩村がアメリカの舞台で「あること」を学んだからだ。
「やるかやらないかって言ったらやるしかないんです。最低限のプライドはあるかもしれないけど、『変なプライド』っていう言葉に片付けられるような程度なら捨てた方が楽です。それができた時に、初めていろんなものが吸収できるようになります」
バッティングのスタイルも日本時代から変えた。ヤクルト時代の岩村はホームランを量産したが、その代償として三振も多かった。ところがメジャーではコンタクト重視の打撃スタイルに変更し、勝つために何でも受け入れるという意欲を見せた。
「意図的にこう変えようと取り組んできたわけじゃなく、チームに何が必要かっていうのを自分の中で見つけていったうちに、そういうスタイルになりました。ホームランはそこまで打てない。打てないんであれば、三振は減らして塁に出る確率を上げる。相手が嫌だと思うようなプレーをしていく必要があるということですよね。そうしていくうちに、プレーの幅が広がっていきました」 メジャー2年目の08年、岩村のセカンドへのコンバートは成功した。152試合に出場し、175安打をマーク。出塁率.349を記録してリードオフマンを全うし、球団創設以来初のリーグ優勝に大きく貢献し、下位チームからの下剋上を見事に完成させたのだった。
サクセスストーリーの実現に何が必要だったかと問うと、岩村は熱弁を振るった。
「当たって砕けろですよ。まず行動するということです。英会話でもそう。僕は監督のところにも通訳なしで話をしにいきました。そうすることによって、生まれるものがあった。ある程度の準備は大事だけど、あとはもう腹くくってやるしかない。やるしかないわけであって、不安になっても始まらない。
日本人内野手はメジャーで通用しないと言われますけど、自分たちを押し殺しながらチームにアジャストしていこうという部分で僕たちは戦っている。チームが勝つために何が必要かっていうことです。松井稼頭央さんや井口資仁さんも、自分の成績が落ちてもチームに必要とされる選手になった。
だからこそ、みんなワールドシリーズを経験できたわけですよ。3000安打を打たないと成功とは言えない? ホームラン40本ぐらい打たないと成功じゃない? それは違うんじゃないかって。やっぱり内野手が黒子に徹しない限り、チームは勝てないと思いますから」
だからこそ、日本時代は受け入れなかったコンバートにも挑戦し、バッティングスタイルまで変えた。いわば、サクセスのためのアクションを果たし、岩村は「世界が変わった」。メジャーリーグに挑戦して、自身が学んだ大きな財産だった。
岩村は、今、そうした経験のすべてを独立リーグという舞台で生かそうとしている。BCリーグ・福島レッドホープスの監督を務める男は、指揮官としてもアメリカの経験が糧になっていると語る。
「どんな球場であっても『ここで試合をやる』と言われたらやんなきゃいけない。ナイターが暗くてもやんなきゃいけないのが今の独立リーグのなんですよ。言い訳しているよりも、出されたメニューを食べるしかない。やらない選択肢はないわけで、やるしかないんだったら、どうせならトコトンやりましょう。楽しみなさいって話を選手たちには伝えています」
岩村の“監督像”は、メジャーで仕えた恩師から大きな影響を受けている。
(続く)
取材・文●氏原英明(ベースボールジャーナリスト)
【著者プロフィール】
うじはら・ひであき/1977年生まれ。日本のプロ・アマを取材するベースボールジャーナリスト。『スラッガー』をはじめ、数々のウェブ媒体などでも活躍を続ける。近著に『甲子園は通過点です』(新潮社)、『baseballアスリートたちの限界突破』(青志社)がある。ライターの傍ら、音声アプリ「Voicy」のパーソナリティーを務め、YouTubeチャンネルも開設している。