「マイ・キューティー」
13歳上の夫は、美しい妻のことを、そう呼んでいた。
タワマン最上階の自宅、使い放題のブラックカードに際限のないプレゼント…。
溺愛され、何不自由ない生活を保障されたセレブ妻ライフ。
だが、夫の“裏切り”で人生は一変。
妻は、再起をかけて立ち上がるが…?
◆これまでのあらすじ
勢い余って、英治から一銭ももらわずに離婚してしまった里香。仕事に邁進しようとした矢先、派遣契約の終了を告げられる…。
▶前回:慰謝料の相場とは?浮気夫に“3億円”を要求しようとした妻を襲ったありえない悲劇
「聞こえてますか?」
電話越しの声に、里香はハッとなった。
「す、すみません…。は、はい、大丈夫です」
背後でティッシュを差し出したモサ男を呆然と見つめていた。ティッシュで涙を拭い、慌てて電話口に戻る。
里香は「ありがとう」と視線を送るが、モサ男は頭ひとつ下げることも、ニコリとすることもなく、その場を立ち去った。
相変わらず、何を考えてるのか分からない。良い人なのか何なのか。そんなことをぼんやりと考えていると、耳に当てたスマホから大きな声が聞こえてきた。
「聞こえてますか?改めた方がよろしいですか?」
語気を強めたその声は、明らかに不快の色が滲んでいる。
「す、すみません。ええっと」
電話に意識を戻す。だが、突然のクビ宣告の衝撃は想像以上に大きかったらしい。頭の中が真っ白になってしまい、言葉ひとつまともに出てこなかった。これ以上話しても無駄だと察したのだろう。派遣会社のスタッフが、会話終了に乗り出す。
「突然の連絡で申し訳ありませんでした。改めてご連絡しますので。失礼します」
「あ、ちょっと、その…」
プップー。
電話が切れた音を遠くに聞きながら、里香はその場にしゃがみ込んだまま、しばらく動けなかった。
「ど、どうしよう…」
変人、現る
「はぁ…」
ランチタイム。
『シェイクシャック』のテラス席で、里香は大きなため息とともに突っ伏した。
頭の上から、ジリジリと焼きつけるような太陽光が降り注ぐ。普段なら紫外線が気になって仕方ないが、今日はこの太陽に濡れた涙を乾かしてほしい。
なんとか午前中を終えたが、仕事に集中することなどできなかった。油断すると涙が出るので、ずっと唇を噛み締めていた。今になって、唇がジンッと痛む。
「私、これからどうなるんだろう…」
頼れる夫もいない今、不安しかない。お先真っ暗だ。涙が溢れ出し、視界がどんどんぼやけていく。その時だった。
「また何か失敗したんですか?」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
「また失敗って、どういうことよ!?失礼じゃない!」
黙っているわけにはいかない。涙はピタッと止まり、里香は勢いよく振り向く。そこにいたのは、2時間前にティッシュを差し出してくれた、あのモサ男だった。
「ここ、座らせてもらいます」
質問に答えることなく、モサ男は里香の前に勝手に着席する。そればかりか、ハンバーガーを頬張りながら持ってきたノートパソコンを開いて何かを始めた。
― なんなの、この人。
サクサクとした食感と、濃厚なチーズがクセになるチーズフライをつつきながら、里香はモサ男を観察してみる。
マッシュな髪型は、セットなのか無造作なのかよく分からない。よくよく目を凝らして見てみると、肌はツルッときれいで清潔感がある。重い前髪に覆われているが、意外にも目はクリクリとしていて、かわいらしい。ジーッと観察していると、怪訝そうな顔をしたモサ男と目が合った。
「何ですか?」
「いや、別に…」
慌てて目を逸らすと、モサ男は眉をひそめて、こう続けた。
「さっきも聞きましたけど、また何か失敗したんですか?人目も気にせず職場でワンワン泣いてる人、初めて見ました」
棘のある物言いにカチンときた。里香は、口を尖らせながら言い返す。
「ワンワンなんて失礼ね。私は、涙を堪えながら、シクシク泣いてましたけど。言っておきますけど、失敗したわけじゃないですから。ああでも、あの時はティッシュありがとうございました」
「駅前で配ってたやつなんで」
それだけ言うと、モサ男はパソコンに視線を戻した。なぜ泣いていたのか、もう少し気にかけてくれても良いのではないか。いかにも興味なさそうなモサ男の態度に、里香はイラつく。
― どうせあと2ヶ月で辞めるんだから。この男にどう思われようと関係ないわ!
やけっぱちの里香は、堰を切ったように話し始めた。
「あなたの会社をクビになるんです。あと2ヶ月で契約終了なんですって。ねえ、私、昨日離婚したばかりなの。こんな辛いことってある?せっかく頑張ろうと思ってたのに、もう…」
威勢よく切り出したものの、やはり涙が出てきてしまった。顔を涙でグチャグチャにさせると、モサ男が再びティッシュを差し出した。再びモサ男と目が合う。先ほどとは違い、その目には哀れみの色が浮かんでいた。
「なによ、同情なんか要らないわよ」
ティッシュで涙を拭いながら里香が強がると、モサ男は信じられないことを口にした。
自分の武器
「人に使われるの、向いてないんじゃないですか。そんな気がします」
それだけ言うと、モサ男はパソコンを片づけ始めた。
「ちょ、ちょっと待って。どういう意味よ?」
謎の発言の意味を確かめるべく、里香は食い下がる。
「言った通りです。人に使われるの、向いてない気がする。あの、早く食べないと昼休み終わりますよ。僕は、そろそろ失礼します」
腕時計代わりのアップルウォッチを見せながら、モサ男は時刻を知らせる。昼休み終了まで、残り12分だ。
「えっ、もうこんな時間なの!?」
急いでハンバーガーとチーズフライを食べた里香は、小走りでオフィスに戻った。
◆
自宅に戻った里香は、布団でゴロゴロしながら新たな仕事探しを始めた。早く仕事を見つけないと、たちまちに生活が立ち行かなくなる。死活問題だ。それなのに全然やる気が起きず、関係のないことばかり考えてしまう。
“人に使われるの、向いてないんじゃないですか”
さっきからモサ男の言葉がリフレインする。よく意味はわからないが、なぜかずっと脳内に残り続けていた。
「誰かに使われるのなんて、そりゃ嫌よ。でもそんなこと言ってたら、仕事が見つからないじゃない?」
スマホに表示された求人をぼんやりと眺めながら、独りごちる。壁の薄いマンションに慣れてきて、独り言の音量も遠慮がなくなってきた。
「はぁ、もう嫌だ」
もう一度大きくため息をついた里香の目に、とある広告が飛び込んできた。
“運命の出会いを、あなたに”
マッチングアプリの広告だった。
「これだっ!」
思わず飛び上がった。なぜ今まで思いつかなかったのだろうか。
「私の武器はなぁに?」
里香は、洗面台の鏡に向かって、「鏡よ、鏡さん」と、かの有名な童話のように語りかける。童話と違い、鏡が答えてくれるわけはない。だが、良いのだ。鏡に映った自分の顔を、里香はうっとりと見つめた。
「さっさと、次の相手を見つければ良いのよ!」
里香の武器。そう、それは誰もが認める圧倒的な美貌だ。
勤務先の女たちのあいだでも話題になるほどだし、思い出したくもないが、英治だって「顔だけが取り柄」と認めている。
「私ったら、自分を見失ってたわ。自分で稼ぐなんて、そんな惨めなことしなくても良いのよ。この美貌があるんだから。英治ほど経済力がなくても、とにかく優しくて誠実な旦那様を見つければ幸せになれるはず」
先ほどまで真っ暗だった視界が、一気に明るく、鮮明になる。離婚歴があるものの、まだ30歳。ずば抜けた美貌を生かせば、いくらでも男は寄ってくるはずだ。気分が良くなった里香は、鼻歌まじりにスマホのカメラを起動させる。
プロフィール画像を撮影し、アプリでちょこっと加工。こんなの、お手の物だ。ありのままの自分をさらけ出すなんて、そんなことをしてはいけない。狙った男性を射止めるため、戦略的に動くのだ。
その時、スマホが新着メッセージが届いたことを知らせた。
『里香、ヘルプ!』
友人・舞子の危機を感じさせるLINEに、里香は思わずビクッと肩を震わせた。
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「お金が足りない!」経営者の夫と離婚直後、30歳女がとった衝撃の行動とは
2022年8月18日