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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【14】「格闘技世界一」猪木へ挑戦者が殺到!

アサ芸Biz

 1975年の下半期には「全日本プロレス・オープン選手権大会」と「力道山13回忌追善特別大試合」への出場拒否で、ジャイアント馬場に追い込まれる形になってしまったアントニオ猪木だが、密かに76年の新たなステージに向けて着々と準備を進めていた。

 75年4月、日本アマレス協会の八田一朗会長が渡米中のパーティーでプロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリに会った時に「100万ドルの賞金を用意するが、俺に挑戦してくる勇気のある東洋人はいないか?」と聞かれたという話がスポーツ紙で記事になり、これに即座に反応したのである。

 アリの試合をプロモートするドン・キング、アリのトレーナーのアンジェロ・ダンディに挑戦状ならぬ応戦状を送付。さらに6月30日にマレーシア・クアラルンプールでジョー・バグナーと防衛戦をするアリが6月9日に日本に立ち寄って記者会見を行うと、新日本プロレスの杉田豊久渉外部長が応戦状を直接手渡した。アメリカ、ヨーロッパのマスメディアには「アリよ、逃げずに俺と戦え!」というアピール記事と写真を送った。

 こうしてアリ戦実現を模索する中でラッキーだったのは、アリに太いパイプを持つ弁護士のロナルド・ホームズと親しい日本人のS氏とつながったことだ。

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 その伝手で75年11月にロサンゼルスで猪木のマネージャーの新間寿がホームズと会談、12月にはニューヨークで猪木とアリ側の会談が実現したのである。

 そして、その過程で思わぬ挑戦者が現れた。72年ミュンヘン五輪柔道の重量級&無差別級金メダリストの〝赤鬼〟ウイリエム・ルスカだ。ルスカは西ドイツで猪木の記事を読んで、親交のある当時の日本レスリング協会の福田富昭国際部長を通じて猪木への挑戦をアピール。猪木vsルスカは「格闘技世界一決定戦」と銘打たれて76年2月6日、日本武道館で実現の運びとなった。

 21年(大正10年)3月5日と6日の2日間にわたって靖国神社相撲場でアド・サンテル(鉄人ルー・テーズに関節技を教えたライトヘビー級の実力者)らのアメリカのプロレスラーが講道館柔道の永田礼次郎三段、庄司彦雄三段らと戦って以来55年ぶりの〝プロレスvs柔道〟は超満員1万2600人を動員。テレビ中継も「ワールド・プロレスリング」歴代1位の34・6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)という視聴率を弾き出すなど、プロレスファンのみならず、世間の関心度も高かった。

 この大一番をバックドロップで制した猪木は、6月26日に日本武道館で遂にアリ戦に漕ぎ着ける。

 試合は3分15ラウンドをフルに戦って引き分け。今でこそ、アリを守ろうと必死に策を弄したアリ軍団、圧倒的に不利な暗黙のルールの枠で精いっぱい戦った猪木の双方が評価されているが、全世界に中継された当時は世紀の凡戦、茶番と酷評されてしまった。

 9億円の赤字となり、社長の猪木、副社長の坂口征二は代表権を外されて平取締役に。営業本部長の新間も平社員に降格させられ、NETテレビ(現・テレビ朝日)から3人の役員が出向して新日本の経営再建を図ったが、地方興行の観客動員数もテレビの視聴率も下落した。

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