しかし、こんなナレーションが流れている一方で映像を観てみると、リコリスたちが「社会を乱す者」を実力行使で排除している様子が映し出されている。
この映像とナレーションのギャップが実に皮肉めいていると言える。
私たちの生きる現代は、ポスト・トゥルースの時代とも呼ばれる。そこでは、客観的な事実よりも、虚偽であったとしても個人の感情に強く訴えるものの方が強い影響力を持ち、それが事実を凌駕するとされる。
『リコリス・リコイル』で描かれる日本(東京)における客観的な事実は何だろうかと考えてみると、それは「東京には社会を乱す者があふれており、危険で平和とは程遠い」ということになるのだろう。これは、第1話の冒頭の映像が示す通りだ。
しかし、リコリスが「社会を乱す者」を排除し、DAが「日本人は規範意識が高い」、あるいは「東京には危険などない」などという神話を打ち出すことによって、客観的事実は簡単にニセモノに取って代わられてしまう。
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その最たるものとして描かれているのが、旧電波塔である。「事件は事故になるし、悲劇は美談になる」と劇中で千束が指摘していたように、旧電波塔は本来、悲劇や東京を揺るがした大事件の象徴であるはずなのに、今は平和のシンボルとして親しまれているわけだ。
このように『リコリス・リコイル』が描く日本では、人々が目を背けたくなるような過酷な現実は、政府やDAによって、漏れなく心地の良いニセモノへと書き換えられていく。
そして、そこに生きる人たちは、危険や反乱という過酷な真実を直視しようとすることはなく、幸せや平和というニセモノに逃避しながら生きている。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが軽蔑した人の在り方として「Letzter Mensch(末人)」というものがある。これは「いかなる代償を払っても痛みを避ける人」を意味する。
『リコリス・リコイル』における日本(東京)に生きる人たちは、まさしくこの「末人」として描かれている。
例えば、第5話にて刑事の男性が「ああいう子が安心して暮らせるなら、誰が何を隠蔽していようが、何だっていいだろ」と後輩の刑事に言っていたが、これがまさしく「末人」的な態度である。
不都合な真実よりも、政府やDAが中心になって発信する甘美なニセモノを好む。そのニセモノを信じ続けている限りにおいて、日本は「平和」なのだ。
しかし、ここで考えてみたい。それは果たして「ホンモノの平和」なのだろうか?
この問いこそが、『リコリス・リコイル』の中心にあるものだと私は考えている。
ホンモノを見据える千束のまなざし
ここまでも指摘してきたように、『リコリス・リコイル』はニセモノの平和を享受する人々と、ニセモノを維持するために戦うリコリスたちの姿を描いている。
そんな世界の中で、ホンモノを見据えるキャラクターとして描かれているのが千束だ。
例えば、彼女は先ほど挙げた旧電波塔について次のような見解を述べている。
壊れてできた意味もあるんじゃない。
でも、そういう意味不明なところが私は好き
(『リコリス・リコイル』第1話より)
この発言から伺えるのは、彼女が「壊れた」という事実を直視し、その先に意味を見出そうとしていることではないだろうか。
また、第3話の中で、DAの本部に戻る道を絶たれ、絶望しているたきなに対して千束は「失って得られるものもある」と助言していた。これは自身の経験した喪失を無かったことにしようと試みるたきなに対して、喪失を直視することの大切さや意味を説いた発言とも考えられる。
こうした発言の中に、彼女の崩壊や喪失を真っ直ぐに見つめるまなざしが見て取れる。崩壊や喪失とは、まさしく「末人」が避けようとする「痛み」のことだ。
そして、千束の信条の1つに、敵であっても命を奪わないというものがある。その理由を劇中では「誰かの時間を奪うことは気分が良くない」と説明している。
敵の命を奪わない千束が何を見つめているのか、それを考えるに当たっては、逆に本作において平然と人の命を奪うリコリスや真島のようなテロリストが何から目を背けているのかについて先に考えてみたい。
ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルが著書の『世界史の針が巻き戻るとき』の中で戦争が起こるメカニズムについて次のように述べている。
もし我々が皆、普遍的なヒューマニティ(人間性)に気づいていたとしたら、残忍な戦争を始められるはずがありません。真の本格的な戦争を始めようと思ったときに求められるのは、相手の非人間化です。そうでなければ、相手を射殺することなどできません。
(マルクス・ガブリエル『世界史の針が巻き戻るとき』PHP新書)
2015年に公開された『ドローン・オブ・ウォー』という映画の中で、テレビゲームのような感覚で、遠隔操作で人を攻撃し、リアリティなく人の命を奪っていく現代の戦争の在り方が描かれていた。
テレビゲームのようなインターフェースは、自分が遠隔操作で攻撃している対象が生身の血が通った人間であるという感覚を奪う。このように、攻撃する対象に備わっている「人間性」を直視させないことが、現代の戦争に一般市民を加担させる方法なのだ。
DAないしリコリスたちは、自分たちの攻撃対象を「敵」「テロリスト」あるいは「社会を乱す者」以上の存在とは見なさない。彼らを人間としてではなく、そうした記号で捉え、排除することを正当化する。
一方で、真島のようなテロリストたちもリコリスを人間とはみなしていない。第5話の最後に描かれたように、彼らは1人の人間を殺めているのではなく「リコリス」を殺めているに過ぎないのだ。
このように、彼らは自分たちの攻撃対象がヒューマニティ(人間性)を持った存在であるという真実から目を背けている。そんな中で、敵のヒューマニティ(人間性)から目を背けないのが千束だ。
第2話の中で、敵対した傭兵のリーダー格の男性が、彼女に命を助けられた後、仲間たちに「飯を食いに行こう」と無線で連絡する場面があった。これは、彼が敵である以前に、おなかが空いたらご飯を食べる1人の人間であるという事実を視聴者にも思い出させてくれる描写だと言える。
敵であっても命を奪わないという信条の先に彼女が見据えているのは、まさしくこういう真実=ホンモノなのだと思う。
ニセモノだらけの世界で追い求める“ホンモノの平和”
『リコリス・リコイル』が描こうとしている、あるいは千束が追い求めている「平和」とは、喪失や崩壊、死といった痛みを避けることで現れる桃源郷ではない。あるいは「社会を乱す者」の人間性を剥奪し、彼らを排除した先にあるものでもない。
「ホンモノの平和」とは、ニセモノのベールの向こう側にある他者の人間性や喪失、崩壊あるいは死といった不都合な真実を直視したときに、初めてその端緒が見えてくるものではないだろうか。
ポスト・モダンの時代に真実と虚構の境界が瓦解し、ポスト・トゥルースの時代に入ると真実を虚構が凌駕するようになった。私たちの世界もまた『リコリス・リコイル』で描かれる日本のように、真実を軽視し、ホンモノから目を背ける方向へと進み続けてしまったのだ。
そんな時代だからこそ、ホンモノを見据える姿勢が改めて重要になってきている。
第5話の最後に千束とたきなのやり取りが描かれるが、その中で「いっぱい話して、いいガイドだって言ってくれたのも、全部嘘か」と話す千束に対して、たきなが「いいガイドだったのは、嘘じゃないと思います」と反応する。
すべてがニセモノだ、あるいはニセモノもホンモノも変わらないという諦念に支配されることなく、彼女たちはニセモノだらけの世界に確かな真実=ホンモノがあると信じている。
それは綺麗ごとなのかもしれない。それでも『リコリス・リコイル』が、あるいはその主人公である千束が見つめる先にある「ホンモノの平和」がどんなものなのか、最後まで見届けたいと思う。(ナガ)